兄が失踪した。
連絡が途絶えてもう一週間になる。いい大人がたかが一週間程度、と思う向きも大いにあると思われるが 、彼はもともと外出を極端に嫌う性質の人だったから、家族全員が心配している。とはいえ残されたもの がどれほど気を揉んでも兄が帰ってくるわけでもなし、差し当たって出来る事といえば家主不在の家の維 持くらいなものである。当面最も閑な自分がその役目を買ってでたという訳だった。
兄は大きくも小さくも無いマンションに一人暮らしだった。たかが一週間とはいえ、人のすまない家は荒 れる。薄っすら埃の積もった家具に、ひんやりとした空気。必要最低限の家具しか置いていない、飾りっ けの無い簡素な部屋。物が少ないせいか、簡素というよりは寧ろ無愛想な感じがする。兄は出て行く前に 大掃除でもしていったのか、生活感がまるで無い。それでもモデルルームのような、という形容詞は付き そうにない、その理由は多分部屋があまりにつっけんどんで付け入る隙も無いからだと思う。遊びが無い 、装飾が無い、そういう部屋だった。たいていの人が故意か否かを問わず行う自室の匂い付け(つまりマ ーキング、これは自分のものだと主張する為の)が、兄の部屋には無かった。何となく居心地が悪く感じ る。
そんな部屋だから手間は全く掛からなかった。掃除はまったくあっという間に終わった。用意していたバ ケツや雑巾は活躍の出番もほとんどなく、覚悟を決めていただけに拍子抜けで、何となく物足りない感じ すらする。今日一日では掃除しきれないだろうと思っていたから 今晩はここに泊まることに決めていたが、そんな必要も無かっただろうかと思った。
掃除しているうちに、一つ目に留まったことがある。
兄はここに一人で暮らしていたし、交友関係は狭く浅くの人だったからこの家に誰かを招くことも恐らく 無かったと思う。だのに、この家には、スリッパが二足ある、歯ブラシが二本ある、食器が二対ある。そ してそのいずれもが片一方は新品で、すぐに使うことの出来るようなところに置いてある。お茶を飲もう と探した湯飲みは、兄のものの隣に、青鈍色のがあって、使っていないものにしては清潔に保ってある。 兄が何を思って使う当ての無い湯飲みを買ったのか、分からない。
夜になったので、兄のベッドを拝借して横になる。すると頭の真上に窓があり、そこから外の声が密やか に聞こえる。夜の静寂を気遣うように抑えた声、けれども親しげな、二対の声………


思ったのは、兄のこと。この必要最低限のものしか置いていない、生活臭の無い部屋で、兄はどういう生 活を送っていたのか。
使う当ての無い小物たち。恐らくは用を果たすことは無いだろうそれらを、いつでも使えるようにしてお いた兄。一度も使われたことの無い食器は、きっと時たま水ですすがれていたのだろう。たった一人の部 屋で、この少し寒い部屋で、青鈍色の湯飲みを水にさらして、兄は何を思ったのだろう。夜眠る前に窓の 向こうから聞こえてくる声を聞いて、静寂の部屋で、兄は。
彼は、口の重い人だった。物をいう事の少ない人だった。いつも静かな寂しげな目をしていた。誰かと会 話するのが何より苦手で、人と一つ部屋にいるのを避けていた。一人暮らしをすると決めたとき、それで 兄が心安らぐならと思ったのだけれども、それは間違いだったろうか。

切れてしまった糸電話
(兄は死んでしまったのかもしれないと思った。)