25

 私の首は夜中になると勝手に伸びた。ろくろ首だ。寝ている間に上へ上へと昇っていき、天井で後頭部をぶつける。何度も何度もぶつける。深夜の部屋にこつんこつんという音が響き渡る。
 一種の業病だった。首が伸びるのは私の意志ではない。この悪癖の病の故に、貰い手のつかなかった私は、首を伸ばしたいという思いは毛頭持ち合わせていなかった。けれども伸びる。何度でも伸びる。夜中に一時間毎目を覚まして首に勝手な真似をさせないように見張っていても、いつのまにか伸びている。こうなっては私は家の厄介者だった。
 ある日布団の上に寝ていた時、真夜中、揺り動かして起こされた。眠い眼をしばたかせつつ起こした手の主を見てみると、横に眠っていたはずの新郎が大きく開いて目に水分をいっぱいに溜めてこっちを見ていた。それで私ははっとした。また悪癖が出たのだ。恐らくは、眠っていて気付かぬ間に首が伸びたのを目撃されたのだろう。それで驚いて、私を起こしたんだろう。そっと手で首元を触ってみると、今は普通の長さだった。溜息をついた。離縁されるのかもしれない。観念した方が良いんだろう。諦めが胸をよぎり、慣れた絶望を噛みしめた。
 彼は瞳に涙をいっぱいに溜めて、今にも零れ落ちそうだった。いつになく大きく目を見開いていて、涙で潤んでいるせいで枕元の灯明の僅かな光を反射してきらきら光っている。それがじっとこちらを見ていた。泣きだしそうだ。恐ろしかったんだろうか。彼が何かを言う前に、一言でも弁明がしたいと思い、私は口を開いた。そして言った。
「ごめんなさい」
 私が恐れさせたのだとしたら、申し訳なかった。たとえ首が私の意志に反して勝手に伸びてしまうのであっても、怖がらせたのは私に相違ない。それは悪いことだ。私が謝罪の言葉を口にすると、彼はただでさえ見開いていた目を更に大きくして、(犬猫みたいだ、まるで零れ落ちそうにみえる)すると途端に堪えていた水滴が零れだした。涙が頬を伝って、二筋の線を築いた。
「ちがう、」
 彼は言った、泣きながら震える声で、掠れた声で、私に言った。
「謝るな、ちがう、そうじゃないだろう……」
 驚いて声も出ない私をじっと見つめながら、彼は必死に言葉をつむいでいた。邪魔することなど出来なかった。私はただ流れ落ちていくしずくが顎から滴るのを見ていた。彼はちがう、ちがうんだ、と言っていた。涙が流れ落ちていく。彼が泣いている。頬から顎へと幾条かの水の線が出来て、真っ赤な眼をしていて、声がわずかに震えているせいで怯えているように聞こえたが、けれど声音にはしっかりとした芯が、確たる意思がこもっていた。泣いている。それを見ていると、私まで急に悲しくなってきて、何が何だか分からないままひどく寂しい気持ちになった。泣いている、この人が泣いている。私まで哀しくなる。目がじんわりとあつくなって視界がぼやけるのを感じ、私まで泣きそうなのだ。
寂しいなぁ。ぽつりと彼が呟くのが聞こえるともう駄目だった。私は泣き出した。何が哀しいのか理由も良くわからないままに、ひどく寂しく、苦しく、胸が押さえつけられているように痛んで、たまらない気持ちだった。つらいなぁ。もう一度彼がそう呟くのが聞こえた。小さな、吐息か溜息のような声だった。少し寒い部屋に消え行くように響いた音は、それだけでもつらかった。 急に、何もかもが哀しくてたまらないのだった。身体中が痛みを訴えてきているような気がした。世界が暴力と悲痛の嘆きで出来ているのではないかという思いに駆られた。なにもかも、ただ生きているだけで、苦しいことばかりだ。たった独りで立ち尽くしているみたいだ。さみしくて哀しくて頭がおかしくなりそうになる。首が勝手に伸びるのだ。寂しいのでそのつもりが無くても郷愁に駆られ、そうするといつも泣きたい気持ちになる。
謝るな、君は悪くない。彼がそう呟いているのが聞こえた。私は布団から手を出して、彼の手をそっと握った。独りは哀しくて寂しくてやりきれないからだ。握った掌はあたたかかった。静かな脈拍が伝わってきた。
独りでは孤独だ。言うまでも無いことだった。まるで異国の地で途方に暮れているような絶望的なさみしさと疎外感で、気が狂いそうな気分になる。握った手の先で、彼が泣いていた。私も泣いていた。