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親友の喜劇役者はかつてこんなことを言ったことがある。小さな子供が野原で花を摘んでいるのを見て一人でに浮かんでくる微笑も、恋人同士が一つベンチに座りながら互いを見詰め合っている笑みも、いじめっ子が気弱な細っこい子供を虐げているときの酷薄な笑いも、どれもすべて同じ感情からきているものだ。
「つまり、どれも侮蔑の笑いです」
 白痴の演技をしながら、はたまた道化者の役割を演じながら、毎日舞台の上で笑われている彼はそう言って、爽やかな笑顔のまま、次のように独りごちた。曰く、キリストは笑わない。
 微笑は、勝者の敗者に対する端的な優越感情の表れだ。喜劇役者の話に相槌を打ちながら思い出したのは、父の笑顔を一度も見たことがなかったということだった。詩人としてヒューマニズムをこよなく愛した彼は一度も笑ったことがない。昔、公園で父と散歩をしていたときに、目の前でスーツを粋に着こなした老紳士が誤って溝に足を突っ込んで盛大に尻餅をついたのを見たときも、ちらりとも笑みの影を見せずに彼がぬかるむ泥から足を引き抜くための手を貸していた。滑稽な格好をした大道芸人がふざけた仕草でボールをばら撒いているのを見ても、周囲の人間が哄笑しているのをよそに父は眼差し一つゆるめることなくボール拾いを手伝っていた。知り合いの人間と公道ですれ違っても、愛想笑い一つ浮かべない。まるでキリストだ。けれどもその分よく泣く人だった。道で乞食が聖母マリアの絵葉書に接吻しているのを見て泣いた。子供が親の数歩後ろで立ち止まっているのを見て泣いた。下手をすれば老夫婦が手を繋いで歩いているのを見るだけで、或いは腰の曲がった老人が孫にお菓子を与えているのを見るだけで、或いは両親の手に全体重を預けてぶら下がる幼児を見るだけで、瞼を手で軽く押さえていた。
 笑わずに泣く父の心が一体何を思っていたのか、いまだによく分からない。
 しかしそういう父が部隊ではあざけりとさげすみの対象であったという、それは想像に難くない。あの涙もろさでは、手榴弾をうまく投げることも出来なかっただろう。銃の持ち手を固く握り締めておくことも困難だったに違いない。塹壕に先を争って隠れることも苦手だっただろう。笑ってユーモアで誤魔化してしまうこともできまい。そしてそういう父の姿は、傍目には至極滑稽で笑いを誘ったに違いない。
 キリストだって現代にいたなら、他人を嘲笑させることにかけては右に出るもののない、おどけた仕草の一流コメディアンになっていただろう。