こんな夢を見た。私は白い家の前に立っていた、庭には幾つかの花が咲いていて、家庭的で感じが良い。家はこじんまり としているが、掃除の手が行き届いていて、人の手のあたたかみを感じさせる。見たことも無いはずなのに、どうしてだか 懐かしい。
 玄関の門の前に立ち尽くして、私は目を凝らした、家の中には誰かが居る気配がする。窓硝子越しにこまごまと立ち働く 人の影が見える。見覚えのある姿だった、小さな背中、忙しく働く手、大雑把にまとめられた後ろ髪、見覚えのある、幼時 に見た母の姿だった。
 母は台所で働いていた。小さな琺瑯の手つき鍋に沸かした牛乳がことこと音を立てている。その中に母は、一匙のココア の粉を入れた。甘い匂いを帯びた湯気が鼻先をかすめた気がした。子供用の小さなマグカップにそれをそそぐと、母特製の ホットチョコレートが完成する。
 その姿を私は知っていた。よくおぼえている。幼少の頃、私は牛乳が嫌いだった。乳臭いにおいといいもったりした舌触 りといい、嫌いで嫌いで、毎朝母の手で入れられた一杯の牛乳を飲むのを拒否した。母は困ったのだろう、牛乳を飲まない 子供は弱くなる。弱い子供は死んでしまう。それで母は牛乳に一匙のココアを加えるようになった。甘く優しい味のするそ れを私は喜んで飲んだ。母は満足げに笑った。
 あの牛乳を私は知っている。琺瑯の鍋の中で牛乳が立てることことという幸福な音や、朝起きて台所から漂ってくる甘い 香りや、手の中に包み込んだほっとするマグカップのあたたかみを覚えている。胸の奥に何ともいえない感情が広がって、 咽喉の奥から嗚咽が漏れでそうになった。心臓が悲鳴をあげた。郷愁と後悔とで目頭の奥が熱くなった。玄関には鍵が掛か っている。私は咄嗟に叫んだ。おかあさん。
 窓ガラス越しの悲鳴は母には届かなかった。子供の牛乳を手にとって母は家の奥に入っていった、窓からはもう姿は見え なかった。