晴れた日の紫陽花はみすぼらしくて直視に耐えない。干乾びた花が水気を失って日光に晒されているのを見る と、なんだか情けないような心持がしてくる。
 私は主張する。紫陽花は雨の日にのみ己を誇れ。
 雨の日の紫陽花は水分を内包してけぶるように美しい。涙を包み込んでいるみたいに見える。世界中の悲しみ を集めて咲き誇る花みたいだと思う。

 曰く、戦乱の中に花開く天才は平和な日々には単なるやくざ者にしかなりえないらしい。例えば戦の無いナポ レオンなんてのらくら者にしかなれないようなもので、戦の才能は戦にしか生かせない。平和な世では厄介な 邪魔者にしかなりえない天才は、晴れた日にはみっともない姿しか見せない紫陽花に少し似ている。



 時々、悲劇的な状況の中でしか生きられない人と言うのがいる。どんなに幸福な局面にでも、一抹の不安を見 出して不安がる人、つまりは悲観論者なのだと思う。彼らは、常に自分が何がしかの精神的危機に見舞われて いなければ安心して夜も眠れない。時に無条件の喜びや平穏を与えられると、途端に塩をかけられた蛞蝓のよ うにしなしなとしおれてしまう。その代わり、ある種の堂々たる悲劇的要素を与えられると、水を得た魚のよ うに生き生きとしだす。
 これも、雨の日というネガティブな状況でしか魅力を持たない紫陽花に似ている。



 このように、世の中には、真っ当でない人間と言うのが存在する。
 彼らは全般的に捻くれ者で、けっしてまっすぐな目を持つことが出来ない。例えば、頭を180度回転させた上 に更に360度の回転を加えた目で世の中を見ているようなもので、一見してもどこが変なのか分からないが、 到底正確な判断なんて出来やしないし、正直な感情表現にも縁が無い。変にねじけているせいで、天邪鬼に もなれない。



 買ってきた植木を外に出して日に当てていたら、何が悪かったのか、蕾が全て枯れた。
 あまり可愛がってもいない植木だったが、蕾が茶色く変色した途端に、愛着が出てきた。そこで、水をたっぷ り遣り、家の中の日当たりの良い場所に植木鉢をセットして外の風にも当てず、毎日朝晩に声をかけて、猫か わいがりに可愛がった。弱った植木は大層いとおしかった。黄ばんだ不健康な葉っぱがどうしようもなく魅力 的だった。へたへたして下を向いている様子が言いようも無く庇護欲をかきたてた。私は全力で持って植木を 愛した。買ってきた当初は別段の愛情も注いでいなかったのに、今更になって心からの愛情を捧げた。
 世話の甲斐あって、植木は回復した。弱弱しい白っぽい色をしていたのが、全体的にたくましい緑色になり、 ぐんぐんと枝を伸ばし、あっという間にそれまでの脆弱そうな様子など微塵もなくなってしまった。
 途端に、千年の愛もさめてしまった。私は再び植木に無関心になった。



 ナイチンゲールはクリミア戦争下で最も勇敢に活躍した野戦病院付きの看護婦だった。彼女はどんな重症患者 だって臆せずに手当てした。腕が千切れていようが、足がもげていようが、目が落ちていようが、肌が火傷で 爛れていようが、どんな傷であれ彼女は眉一つ顰めなかった。白い制服が血と泥にまみれていくのも構わず、 処置を施した。骨がむき出しの傷跡でも、触れるのに躊躇しなかった。醜怪な怪我のせいで三秒と正視に堪え ない患者の顔も、まっすぐに見つめて天使のような笑顔を浮かべ、大丈夫元気を出してと励ましながらその頬 にキスをした。彼女はたくましく、優しく、その上美醜などものともしない程の博愛だった。
 そんな彼女に、患者は皆恋をした。そして、傷も癒え元通りの身体に回復してから、薔薇の花片手に彼女の元 に参上し、愛の言葉を囁いた。ナイチンゲールは、落ち着き払った様子で笑み一つこぼさずに言い払った。元 気な男に用なんて無いわ。薔薇を貢ぐくらいならせめて薬品か、さもなくば包帯の一つでも持ってきたらどう ? 病院では常に医薬品が不足してるのよ。



 毛嫌いしていた知人が死んだ。いつも間の抜けたことしか言わないから、私はあの子が嫌いだった。口をあけ てぼーっとしている顔は何より愚かしいと思っていた。一言の口をきいたことさえない。私はいつも無言であ の子を軽蔑していた。
 それでも知っている人間が死んだとなれば後味は悪い。数人の友人と共に葬式に行った。狭い和室の座敷の正 面に白木の粗末な祭壇が組んであり、その上に棺と映りの悪い写真がおかれている。目元をハンカチで押さえ ている中年女性、あれは母親だろうか。幾つかの花瓶に生けられた花は、どれも色が悪くしおれかけで、近寄 ると熟んだ百合の花のきついにおいがした。手近な喪主らしき人にお悔やみを述べると、ぼそぼそした口調で なにやらごちょごちょ言ってくるのが、どうにもこうにも馬鹿なあの子のもごもごした喋り方を髣髴とさせた 。
 喪主は、棺の顔の部分にある小さな蓋を開けて、どうぞ最後の顔を見てやってくれといった。私は内心で死人 の顔なんて真っ平ごめんだと思ったが、仕方ない。友人たちと困惑した顔を見合わせ、それではと言って、あ の子の死に顔と対面した。
 あの子の顔は、白いというより茶色かった。血の気が無く、肌の張りも無く、触ったらぶよぶよとゼラチンの ような感触がするだろうと思った。鼻につめた白い綿のせいで鼻の穴が広がって見えるのが滑稽だと思った。 目は半開きだった。ただでさえ生きている時から間の抜けていた顔が、死ぬと一層ひどくなったと思った。
 ああ死んだ、と思った。すると、突然に、怒りとも見紛うような悲しみが胸の奥から突き上げてきて、熱い奔 流になった。こめかみが痛み、身体がかあっと熱くなって、不覚にも目が潤んだ。
 隣で同じく顔を見ていた友人が、奇態なものでも見る目つきで私を見てきた。その顔は、あんた生きてる時あ れだけ辛く当たってきたくせに、と言っているようだった。死んだら急にあの子が恋しくなったといったら、 友人は引くだろうか。侮蔑するだろうか、それとも冷笑するだろうか。
 お線香を上げて合掌しながら、内心で、生きてる時にはしたことも無い程丁寧に話しかけた。



 あるところに娘がいた。美しいが心の冷たい娘だった。彼女の冷たい横顔にほれ込んだ男がいて、求婚し、断 られなかったので関係を結んだ。
 心無い娘は、男の事を憎んでもいなかったが、愛してもいなかった。恋しいとも思わなかったし、男がやって こない日も別段惜しいとも思えなかった。男はほとんど毎日何がしかの理由をつけて遣ってきて、上気した顔 で色んな事を語ったが、その多くは彼女の耳を素通りした。娘は、男を人間だと思っていなかった節がある。 生きていく上で否応無く生じる障害物の一つ程度にしか考えていなかったようだった。障害物とはそれなりに 付き合うし、言葉を交わしまた笑いかけもするが、特別な感情を抱くことは無い。男が何か面白そうなことを 言うとそつなく笑い、また帰るときには少し寂しそうにしてみせはしたが、それは娘にとって機械的な反射に 他ならず、身体が勝手にそれらしく反応しただけでその動作には心がこもっていなかった。
 横顔の冷たさにほれ込んだ男は、彼女が少し笑っただけで何かとんでもない宝物を見つけたような顔をした。 それを見ながら娘は、他愛ないおもちゃでも相手にしているような冷ややかな心持になった。
 男は、彼女の動作の底にあるこの種の冷徹さに、気付いていただろうか。或いは最初は知らなかったが娘と交 わるうちに自然と悟ったのか。それとも、美しくはあるが中身のない人形じみた娘に単に飽きてしまったのか 。男は、ほとんど日参していたのが一日おきになり、三日おきになり、一週間に一度になり………ついには滅 多にやってこなくなってしまった。その気になれば娘の方から男を訪ねることも出来たはずだが、彼女はそう しなかった。憎みもせずいとしみもしなかった男は、わざわざ訪問するほどの価値も無いと思ったからだった 。つまり、彼女はまだ男を人間だと思っていなかった。
 ある日のこと、唐突にやってきた男は彼女に紫陽花の枝を差し出した。にこりともせず無愛想に一枝彼女に突 き出すと、そのまま踵を返して去っていった。娘は紫陽花を見た。白色から徐々に青く染まっていく花、雨の 中でしか綺麗になれない花。
 娘は知っていた。紫陽花の切花は長持ちしない、植木なら兎も角一枝だけなら、プレゼントには向かない花だ った。そうしてもう一つ知っていたことは、紫陽花の色の変化を普通心変わりに例えることだった。娘は紫陽 花の意味を悟った。もう二度と男は此処にやっては来ないだろう。
 その途端に、娘の胸にこみ上げてくるものがあった。私は私を誤魔化してはいなかっただろうか。かつて機械 的な反射だと思って愛想笑いをした、あれはもしかしたら本当に楽しくて笑ったのではなかっただろうか。自 分は冷ややかだと思っていたが、本当は、わきあがる喜びを押し隠して冷静を装っていただけではなかっただ ろうか。
 気付くのが遅すぎた。娘は初めて男を愛した。