もともと、そういう子だった。
 我というものが極端に薄く、何を言っても柳に風、暖簾に腕押し、私が笑うと私以上に笑い、私が泣くと私以上 に泣き、私が怒ると私以上に怒り、感受性ばかりが発達していて、人の傷に敏感な。
 実を言えば、あの子が一人称で喋るのを、私は聞いたことがない。「私はこう思った」「私は何をした」「私は こう行動した」そういう、一人称で語るべき言葉を、あの子は発したことが無い。
 要は自己がないのだ。確たる己が無い。自分に向けるべき心を他人にばかり向けていて、結果他人の心の機微に 本人以上に聡いという事態が発生する。


 だからこんなこともある。
 ある時私が部屋に掃除機をかけていると、急にやってきて一言、「おなかが痛い。病院に行こう」。
 実際に行って検査してみると、あの子の方は何ともなく、私のほうが軽度の盲腸になっていたから不思議。どう してあの子は私の不調が分かるんだろうか。別に顔色を注意してみているとか、食べているものを管理している とか、そういう実際的な部分を観察したデータから私の不調を見抜くというのではない。何となく私が日常的に していることを普通に眺めているだけなのに、どこから察するのか、私自身さえ気付いていない体調不良を見抜 く。
 よく分からない。
 多分、あの子の感受性が異様に発達しているからなのだと思う。本人も意識的に認識していないような微妙な痛 みや不快感を、あの子は敏感に感じ取って、まるで自分の体に出来た傷のように言う。「おなかがいたい」。こ の時痛んでいるのは私のお腹であって、あの子のお腹ではけしてないはずなのだが、そこのところがきっと分か らないんだろう。人の痛みと自分の痛みの区別をつけることができない子だ。
 不憫な子。難儀な子。不自由な子。
 その癖良くわからないのは、あの子自身に虫歯が生えた時には何も言わなかった。痛いとも感じなかったらしい 。専門用語で言う進行度レベル4、ここまで進むと抜歯するしかないという、痛くないわけがないと思うのだが 、気付いてなかったというのだから全く理解に苦しむ。人の傷に聡い癖に、自分の傷にはズボラだ。
 歯医者に連れて行って、ここまでくると治療の施しようが………と言われたときについカチンと来て、何となく 腹立たしい気分になった。一体何に腹を立てているんだか分からないのだが、むしゃくしゃした気持ちのまま、 私は医者に言った。「この子、痛覚ないんで、麻酔なしでぐいっと抜いちゃって結構です」。
 医者よりも、その隣に立っていた中年の看護婦が顔をしかめて私を睨んだ。医者は、呆れたように私を見て言う 。「君は、どうも、心無い子だねぇ」


 そんなこんなで、私はあの子がそうやって我の無い事を言うのを見てると、いつもなんとなく心の中をかき乱さ れたみたいな気持ちになる。これはなんだろうか。哀れみ、嫉妬、軽蔑、呆れ、同情、それとも、羨望?


 歯医者から帰宅後、私はむかむかした気持ちのまま台所に立ち料理する。いつもより強い音を立てて荒っぽく切 り刻まれていく野菜。
 心無いとはなんだ。
 かつて、こんなことがあった。私の家で飼っていた犬が死んだ。鎖につながれたまま、項垂れて呼吸をやめた。 身体はまだぬくかったが、目の辺りに蝿が飛び交っていたので、死んでいるのだなと確信できた。私は泣かなか った。泣いて何になるだろう。あるべき出来事があるべきように起こったというだけの事で、それはなんら悲し むべき出来事ではない。泣いて何になるだろう。生まれて生きて死ぬ、生命として当然の流れを目の当たりにし たと言うだけだった。私がなにをどうしようと、犬は死ぬ。当然のことだ。あまりに当然のこと過ぎて、涙なぞ でやしない。
 そうしたら、あの子が横にやってきて、犬をじっと眺めた。首につながれた錆びた鎖を見て、それからしゃがみ こみ、犬の胸の辺りを触った。死体にたかる蝿を手で追い払った。それから、あの子は、泣いた。声も泣くぼと ぼと涙を落とした。
 私は胸の辺りが悪くなっていくのを感じた。泣いて何になるか。泣いてどうなるものか。それでもこの子は泣く のだ。誰より心の敏感なこの子は、死を惜しんで泣くことができるのだ。
 想像してみてほしい、犬の死体を前に片や冷酷な表情を崩さずに死体の前に跪くこともしない飼い主と、死体に 触れて蝿を追いやり胸の辺りに触れて涙を流すあの子と、果たして人間的なのはどちらだろうか。
 あの子は、それからぽつりと呟いた、「哀しい」。私は尋ねた。「誰が?」「犬が。それから、」あの子は私を 指差した。思い返してみれば、あの子には我が無い、あの子は主語が一人称の言葉を使ったことが無い。哀しい のは、あの子であるわけがない。それでは哀しかったのは、犬と、それから泣かなかった私ということになるの だろうか。
 心無いとはなんだろうか。自分で自分が悲しんでることにも気付かない私と、自分では絶対に悲しまないくせに 人の悲しみを敏感に感じ取るあの子と、果たしてどちらが心無いだろうか。泣かない私はそんなに心無かっただ ろうか。麻酔なしで歯を抜けというのは、そんなに心無い科白だっただろうか。
 あの子が何ほどのものか。
 台所。中華鍋を火にかけて、胡麻油を落とし、乱暴に切った野菜やら御飯やらを入れて、力任せにゆすった。手 首をきかせて中身を混ぜる。すると、余りに頭に血が上っていたのか、勢いが余って中華鍋の中身が飛び出して 、全て私の手の上に掛かった。
「!」
 当然ながら、熱かった。火傷した。思わず鍋を取り落とすと、馬鹿重い鍋はがらんがちゃんと派手な音を立てて 床に落ちた。床が少しへこんだ。鍋の中身は飛び散らかった。私は、怒りに任せて鍋を足で蹴り飛ばした。
 何もかもが馬鹿馬鹿しい。究極的にくだらない。
 ひたすら腹立たしい。
 気付くと、あの子が壁の影から台所の方を見ていた。私の手は火傷している。あの子は、その手をじっと見て、 それから私を見つめて、なにかとんでもないものでも見ているかのような目で、顔をぐしゃりと歪めた。そのま ま、心臓の辺りを手でぎゅっと掴み、へたり込んだ。顔色が悪い。奥歯をかみしめて、私を見つめている。
「どうしたの」私は尋ねた。
「痛い。哀しい。寂しい。腹立たしい。それに、悔しい」
「誰が」
 あの子は私を指差した。そして加えていった。「不条理なのが、悔しい」
 そうして、ついに泣き出した。そして言った。「あなたが辛いと、わたしも辛い」。『私も』――――初めて、 主語を口にした。
 この子には、ちゃんと、我があったのか。知らなかった、そんなことは全然、知らなかった。だって一度もこの 子は自己主張したことなんてなかったし、欲求したこともなかった、自分のことなんて一つも口にしなかった。 私はずっとこの子には我がないのだと思っていた。我が無いこの子に心なんてあるものかと。
 私はあの子を、穴の開くほど見つめた。青白い顔で、心臓をぎゅっと掴みながら、へたり込んで泣く子を。この 子の言葉を一言も、聞き逃すまいと。ばら撒かれた御飯と野菜に、へこんだ床、投げ出された中華鍋。
 あの子はいった。
「辛い。苦しい。哀しい。何もかも不条理で、しんどいことばっかりで、あなたが苦しいと、わたしも苦しい 」


 私が、あの子の虫歯を麻酔なしで抜けといったのは、痛みを感じないあの子なら、麻酔をしようがしまいが一緒 だと思ったからだ。どうせ同じなら、くそ真面目に麻酔するのももったいない。それなら無しでやっても一向構 わないと思った。自分でも実に合理的な判断だと思っていた。
 我の無いあの子には心が無いから、私は麻酔なぞ無くて構わないと思った。
 でも、そんなわけは無いのだ、あの子にだって我はあって、心はあって、麻酔無しだと、歯は痛い。当然のこと だ。あまりにも当然のことだ。犬が死ぬ以上に、それよりも現実的な実感を伴って、あまりに当然のことだ。
 私は、当然とは何かさえ、見失っていた。
 盲腸になれば腹が痛い。麻酔無しで抜歯すれば死ぬほど痛い。犬が死ねば哀しい。死体の前に跪き、涙の一つこ ぼすのは、けして無駄なことではない。何もかも、朝が来て夜が来るという以上に、あまりに当然のことだ。
 当然のことだ。
 その当然さえ分からなかった私は、おかしかった。変だった。異常だった。


 思わず、私はあの子を抱きしめた。それは、床を掃除するとか、中華鍋を片付けるとか、そういう実際的な行動 をとる以上に大切な、当然なされるべき行動なのだと、その時私は気付いた。当然抱きしめた。
 それから、こみあげてくるものをそのままに、声をあげて泣いた。かつて心無かった私を心の奥に埋葬した。こ の子が泣いている。だから私も悲しい。それは当然の共感だった。だから、当たり前に、泣いた。

ニルバーナに酔いしれて