その上方出の女は少し學が足りなかつた。一體だういう教育を受けてきたのか知らないが、彼女は 讀み書きが出來ない。計算は十以上は指を使う。會話に使う單語も子供竝で、話す内容もまるで幼 穉だ。こんな女が今までどうやつて生きてきたのか、驚き呆れる。もしかすれば、足りないのは學 ではなく頭なのかもしれなかつた。いずれにしても、女は關西の訛りをそのままに、子供じみた言 葉を話す。その樣子は哀れでもあり、痛々しくもあり、同時にひどく馬鹿らしくもある。

 先日、學生時代からの下宿先を引き拂つて小さな家を借りた。最初は狭すぎるかと思つていた位だ つたのだが、すみ始めてみれば一人で住むには家は大きすぎるように思え、小間使いを一人雇うこ とにした。さうして見つかつたのが先の上方の女である。愚直な女の方が眞面目でいいだろうと思 つて雇つたのだった。その選擇は正解だつたやうに思う。女は實直な仕事ぶりを見せているし、少々 知恵の足りないところはあるが、基本的に餘計な口を利かず、仕事の手はけして早くは無いものの 一つ一つ丁寧にこなす。何より、家が寂しくなくなつたのが良かった。一人住まいの時には何かに つけがらんとした部屋に音が響きやるせない氣持ちになつたのだが、同じ敷地の中に人一人いるだ けで随分と違う。言葉を交わすことは少なくとも、家の何處かしらから物音が聞こえるだけで安心 するというものだ。
 そんな折に、田舎から便りが來た。母方の曽祖父の三十囘忌をするので歸つてこいとの仰せだつた。 歸省するとなるとこの家を空けなければならない。そこで例の小間使いの女に留守を守ってくれるよう頼 むことにした。
「あい、分かりました。うちがきちつとお留守番しとります」
「よろしく頼むよ」
「あい」
 女はいっそ滑稽なほど眞劍な顔で頷いた。たかだか二三日の不在にさうまで神經質になる必要もな いものを、女はぎゆつと服を握り締めるようにしている。それを見ていると急に不安になつてきた 。この女で本當に大丈夫なのか、やはり別のものに留守を頼むべきだらうか。知恵足らずに留守を 預けるのは無防備に過ぎないか。家の金を持ち逃げされることもあると言うし、もっと惡ければ家 に火をつけて逃げるという事もあるらしいと聞く。それに惡氣が無くても、この女ならちよつとした拍子 にとんでもないことをしでかしそうで怖い。もっと信用の置けるちやんとした人物を留守に頼むべ きだらうか………
「だんなさん」
 女が口を開いた。相變わらず馬鹿馬鹿しいほど眞劍な顔をしている。
「道中、危のうないように氣い付けてくださいね」
 拍子拔けしてしまつた。
「ああ、うん」
 女はそれだけ言うと「法事やて、大變やね」と一人ごちながら席を立って「そいじゃあ、失禮し ます」と言って部屋を辭した。
 一人場に殘されて、ぼんやりと考えるに、女に留守を頼んだのは少なくとも間違いではなかつたや うな氣がした。臺所から夕餉の準備の音がもれ聞こえる。包丁の音はとんとんと一定間隔を刻んで 小氣味良い。危なげない手さばきが目に見えるやうである。
 なんだなんだ、と呟いて笑つてしまつた。

(穉拙な祈り)