無邪気でなくなったこの身には、無邪気な振りは辛過ぎる。
可愛らしい真似をするには、私は汚くなり過ぎた。
幼い頃の残像はいつまでも私を苦しめ縛り付けて放さない。おねえちゃんはわたしなんでしょう。ど うしてこっちをみてくれないの。
だから私はいつも静かに、けがれを知らないくりくりとした丸い瞳に、微妙に視線を違えながら、噛 んで含めるように言い聞かせるのだ。綺麗すぎる眼は正視に耐えない。お嬢ちゃん、どうか帰って頂 戴。かつて貴方だった頃の私はもう死んでしまってこの世にいない。
正直な目は、ありのままの感情を私に伝える。
おねえちゃんはじぶんしかみてないんだね。少女の黒い瞳に、暗い影がほのめいた。清廉だった黒曜 からきらきらとした光が立ち消え、代わりに冷めた諦観が宿った。こうやって私は堕落していったん だろう。過去が未来を形成する。未来が過去を落としめる。逆説的なそれは、けれど動かぬ真実であ る。



はや随分と遠い処まで来てしまった。出発点がもう見えない。
私は学校までバスで行くのだが、その道程に小学校があるので、良くそこの学童を見かける。
紺色のブレザースカートに白い帽子を被り、首筋にかかる程度に切り揃えた髪の毛が何とも愛らしい 。大事にされているのだろう、血色の良い薄桃色の頬がぷくぷくとしている。朝も早くから、手慣れ た大人達で込みあったバスに埋もれんばかりの小さな体躯で、その必死さが微笑ましい。黒っぽい人 だかりの腰の辺りの高さに白っぽい布が見え隠れする、そのたびについつい手を伸ばして引き上げて あげてやりたいと思ってしまう。無条件に庇護欲をくすぐられるのである。
さて、満員のバスで私は背中の辺りにあたる固い感触に苛立っていた。
おそらくは誰かの荷物なのだろうか、バスが揺れ動くたびに押しつけられるその不快な物体は、ただ でさえ憂欝な通学で気の立っている私の神経を逆撫でしていた。角が腰骨に食い込むようにあたって いて、それがバスの振動で肉を抉るのだ。いい加減に頭に来ていた。
何度か、わざとみじろいでみたりした。ごほんとせきをして注意を促してさえみせたのだ。まさか気 付いていないのか。否、そんな筈はない。現に鞄の主は時折座りが悪いのを装い故意に私の背に鞄を 擦りあてながら姿勢をずらす。それは明らかに私への当て付けに思えた。
気付いていて尚、止めないのだ。嫌な気分だった。肩の荷物は比重を倍増させ、梅雨時の空気にも似 た物が胸を満たした。気分が悪い。
太々しいその持ち主の顔を一目拝んでやろうと、私はさり気ないふりをして背後をちらりと一瞥した 。
ああ、見なければ良かった。居るべきでない人が其処にいる。
鞄の主は、背の低い愛らしい少女だった。紺色のブレザースカートに白い帽子、すずやかな髪の毛。 いつもの、例の、少女。
瞬間、僅かに交わった視線に、少女は侮蔑の色を浮かべた気がした。意地の悪い、世間を知っている 者の
匂いがする。小さな姿に吐き気すら感じる。気付かない振りをしながら、しかし その神経は私に向けて鋭く尖っているに違いないのだ。
私は静かに俯き、それきり黙っている事にした。必ず事実は小説ほど美しくはな いのだ。そんな事は私とて承知している。



死にたくない死にたくないと呟き頭を抱える。そんな非日常的な所作でさえ、慣 れてしまえば何の感慨ももたらしはしないのだ。
語意は失われ、無感動にも還元の道を辿る。もはや自分が何を言っていたのか分 からない。
最初は涙でさえ流していた気がする。
真に迫った言の葉に衝撃にも似たカタルシスを味わった気さえする。それなのに 、今となってはその言葉の意味が認識できない。
死にたくない。確かに、今でも死にたくはない。だが、最初の天啓じみた妄執は もう失ってしまった。残されたのは、形骸化された単語とざらついた舌触りと肝 心な処が思い出せない記憶、たったそれだけだ。
それにしても、あの頃は良かったと嘆息するのは簡単だけれども実際にその時代 に戻ることは出来ないのだ。もしも戻れたと思っていたとしてそれは只の勘違い か錯覚でしかないし、かりに本当に戻ってしまった
として、それは単純に退化にしかならず、そこにはオリジナルの頃の素晴らしさ は無いのだから。模倣は模倣である、それ以上でも以下でもない。
だが、同時に私は人間なのである。ありえないことをありはしないかと願わずに 入られない空想的な生物なのである。常に万が一を祈っている悲しい一哺乳類な のである。――模倣が真実に生まれ変わりはしないかと夢見るくらいには、私は 人間なのである。
死にたくはない。まだ死にたくはない。だが、この現状が続くようなら私は自害 を真剣に検討せねばならないだろう。
愚かしい程に無力な私は、仕方がないので、今日も模倣が真実に変化する事を考 えるのだ。
明日の命を保つ為に。



元来面倒事が嫌いだった私は、物心着いた頃から出来る限り周囲のご機嫌伺いを するように心がけてきた。他人との付き合いの中には必ず一線があり、其処を越 えればろくな事にはならないと本能的に知っていた。
そんな可愛くない子供であったので人を怒らせた事などほとんど無いのだがそれ でも一度だけ、母を激怒させたことがある。細かい事は覚えていない。暑い夏の 日だった。コンクリートの道を歩いている母の後ろ姿。
へそを曲げた母は一人でずんずん歩いて行く。私は小走りで追い掛けるがなかな か追い付けない。彼我の差は開くばかりなのである。まって、おかあさん。母は 振り向かない。
暑い夏の遊歩道だった。どよんだ熱気で頭がぼーっとしてきていたことを何とな く記憶している。焼け焦げたコンクリから陽炎が立ち上っていた。
湯気のような空気の湾曲が、私と母を隔てていた。陽炎が、母の背をぼやかし ていて、何とはなしに、このまま二度と追い付けないのではないかと感じ、歪ん だ空気にそのまま周囲の風景が溶け込み、
吸い込まれて行くのではないかと不思議に思った。いづれ靄がさめたなら、そこ には誰も何も無くなっているのではないか。
いよいよ母の姿は小さく遠くなっていた。おいていかれる。陽炎の壁が厚すぎ て、母の気配はもうわからない。いよいよ皆吸い込まれてしまったのかと、私は 尚の事必死になって陽炎を掻き分けて母を求めた。不自然に歪曲した世界が私 を囲んでいた。
思えば、あの時陽炎の世界に取り込まれたのはきっと私だったのだ。母の背は 遥か遠く、私は臆病で空想好きの馬鹿な子供であった。



「さようなら。」
後ろ姿に掛ける言葉などもはや。
「お元気で。」
ここはひとまず逃散逃亡。逃げ切れるかどうかは願望の範囲外だから、それでは さようなら。
こうなってしまった原因に至っては、口に出すことも厭わしい。何がいけないか といって君が余りに優秀になってしまったことだ。
さようなら。かつて一味同心であった我々が、今となってはどうやっても互いに 反目しあっている。皮肉、アイロニー!修辞学としては失敗している。レトリッ クにしては陳腐にすぎる。相容れない。生きる道が無い。
原初の頃は、自分が偉人の箴言を挙げ、君は嬉しげに聞いていた。今は君が賢し げに出典の分からぬ散文を引っ張りだしてきてはお前には理解できぬという侮蔑 も露に語って聞かせる。くだらない!なんたる低俗。その精神こそが、まさしく 堕落の顕現だと言うに。とはいえこちらとて同じ事をしていたのだから。ああ報 われない。つまらない。所詮は同類。同じ穴のむじな。
確かなのは両者とも他人の智慧をあたかも自分の発明であるかのように流用する その共通の浅ましさいじましさ。傲慢に過ぎやしないか。無論承知のうえか。 甲高い声が聞こえる。きっと過去の自分がさかしらぶって警句を読み上げる声だ 。恥を知れ。愚か者め。
さようなら。自身の恥曝しは黙認し他人の稚拙は攻撃してゆけ。だからこれから は君の悪口を言うことにする。自身の浮き名はいくらだって棚に上げよう。
優秀な君はただ笑ってこれを赦せ。そうしたならますます図に乗ることが出来る 。百歩譲ってその笑いは冷笑でも構わない。気付かぬふりで愚昧を続行しよう。 ごめんなさい、さようなら。
君とて笑ううちにきっと自身の俗さが目に余るようになってくるさ。
そうなったときにまた出遇おう友人、だから、ひとまず、くるりかえって、さよ うなら。苦みを知った二人は次こそうまくやれると取り敢えず、祈る。