[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。




『地球から遥か離れた太陽系第七惑星、海王星は寒い星である。
平均気温は-366℃、夜間にもなればさらに冷える。とても人間が生きていける寒さではない。
付属の衛星――つまり月――は八つ。自転周期は16時間と幾分短いが、公転周期は165年ととてつも なく長い。
それが海王星である。

地球で人口爆発が起こってすでに久しい。溢れかえる人口に地球はついに音を上げたのである。陸 地、空中、海中、その全てを居住地にしたにも関わらず際限無く増え続ける人間が最後に取った手 段が、宇宙進出だった。
途方も無い計画ではあったが他に術はなかった。地球では人間が増えた分だけ広がった貧富の差が 軋轢を生み、民間では人間の間引きが行われ、国家はその力を失いつつあった。徐々にスラム化す る街の現状を打破するには、多少無茶な方法でも人間を減らさねばならないと判断された。
計画は異例の速さで実行に移された。最初に白羽の矢の立ったのは月であったという。こういった 事態をある程度まで想定して先立って作られていた月面移住区は、いくつか問題点を浮き彫りには したものの、おおむね成功したと言えた。
酸素の供給、水の循環生成、食糧の確保、これらの点を自由にするだけの技術を手にした人類は、 次々に宇宙へ飛び出していった。
現在人類は太陽系惑星の全てを住みかと変え、未だ人口を増やし続けている――。』



これが公式記録に残る宇宙進出の一部始終である。人類は火星、水星、と身近な星へとどんどん 宇宙船を放ち、最終的には第八惑星冥王星まで到達した。この海王星に人間の住むようになったの はごく最近の事である。その為まだ治世が整っておらず、生活保障もままならない。
住民は建物内に割り振られた一室を与えられ、配給の食糧で日々を生活している。この生活が恵ま れているのかそれとも辛いものなのか、ルカには判断がつかなかった。ただ周りの人がみなあまり 幸福な顔をしていないので、もしかしたらこの生活は恵まれていないのかもしれない、と思った程 度の事である。
立ち上げていた端末を切り、溜め息をついた。 数少ない機器類を使ってもこの程度の情報しかえられないのだ、この星では。 仕方のないことである。ルカは一介の移住者なのだから、一般向けの情報しかえられない。 だがまだ軌道にのっていない経営状態の星で端末を使用する為に払った苦労を思うと、自然気分も 暗くなる。
ルカは地球を知らない。
生まれは海王星移民船の中である。何億高年と離れた惑星への移動は長の年月を必要とする。ルカ は宇宙船で生まれ宇宙船で育った。
物心ついた頃には既に、宇宙船は地球を離れて帰ることの出来ない場所まで来てしまっていたので ある。
端末室を出てキーを管理室に返却し、ルカは建物外へと足を向けた。外はもう夜闇である。此処は アンドロメダがひどく近くに感じられる。
海王星居住区はドーム状になっている。大気に酸素成分の少ない惑星では一般的な仕組みだ。星が 綺麗なのは空気成分のせいではない、あれはドームの天井に直接描いてあるからだ。
否応無しに思い出す。ルカには兄がいた。大人しい、どちらかと言えば柔らかい雰囲気の持ち主だ ったが、芯は強い、頭の良い人だった。何時のことだったか、まだ宇宙船が海王星に到達し居住区 に人が住みはじめた頃だっただろうか、幼いルカに兄は言った。
「まるで刑務所みたいだ」
刑務所?ルカが首を傾げると兄はその様子を察したようだった。
「ああ、ごめんごめん。ルカは地球を見た事が無いんだったね。」
随分年の離れた兄妹だった。ルカが産まれた頃にはもう十五に近かった兄は、時 折こんな風に地球第三惑星を懐かしんでいる。
聞き慣れない単語に眉をしかめたルカに、兄は刑務所というのは地球で犯罪を犯 した人が罰として入れられる所なんだよ、と教えてくれた。地球 について学ぶ機会は少なからずあって、大抵は兄が教師となり説明してくれるの だが、その都度ルカは地球の話をすると兄が頬を紅潮させる意味を考えるのだった。
そうだ、兄さんはまるで地球に恋しているみたいだ。
「どうして刑務所みたいなの?」
ルカは尋ねた。兄はその問いに虚を突かれたような顔をして、返答を逡巡してい るように見えた。
「…天井をごらん。ドームの天井だ。空が見えるだろう。ルカはあれが何なのか 知ってる?」
言われて上を向くと、確かに空が見える。今の時刻なら綺麗な天の星がきらめく 。何なのかといわれても、空以外の何であるのか。そっと隣の様子を伺うと、兄 は眉根を寄せて険しい顔をしていた。視線の先は例の空である。どうやら兄は海 王星の天が嫌いらしい。
空に限らず、兄はいつも何かと海王星を嫌う。普段はやんわりとしている兄が不 快を顕にしているのを見るのは複雑な気分である。疑問と、恐怖と、安心、どう してそこまで思う反面、兄の人間らしさを見て嬉しくもなる。
「…分からない」
「あれはね、本当は空ではないんだよ。空に似せた絵を描いている天井だ」
ルカは目を見張った。言われてみれば、この土地で雨が降った事はない。曇るこ とすらない。それが海王星特有の気候なんだろうと思っていたのだけれど。
よく考えれば、地球からの距離がこれほど離れていながら映像で見た地球と同程 度の陽光を得られている事自体が不自然ではある。ルカは全く気付いていなかっ たのだけれど。
さらに兄は続ける。
「刑務所というところの天井にも空が描かれているんだ。閉塞感を無くすためら しいね。四方を壁で覆われているから」
その頃のルカには、兄が何を言いたいのかよく分からなかった。刑務所という例 えは腑に落ちない所があったし、天井の共通点だけでそうと言い切ってしまうの には抵抗があった。しかし兄の不機嫌な表情を見ればこれ以上兄を患わせるのは 躊躇われたし、何より兄を怒らせたくなかったので、その意味さえよく分からな いままに、ルカはただ追従したのだった。
今のルカならばあの日の兄の言葉の意味も表情の指し示す感情も知っている。優 しかった兄は思えば海王星に着いてから段々とおかしくなっていった。笑わなく なり、怒りっぽくなった。食が細くなったせいで頬がこけ、目付きが鋭くなり、 全体に狂人じみた雰囲気を帯びるようになった。
そうしていよいよルカにも何を兄が言っているのか分からなくなってきていた時 、兄は居住区の管理装置を並べてある機械室にいる所を警察組織に取り押さえら れ、逮捕される事となった。
話によると、機械室の生命維持装置や酸素供給機を壊そうとしていたところを拘 束捕まったのだという。海王星では警察組織に代表される治世に携わる機関は絶 対視されている。警察に収容されたという事は二度と日の下を歩く事を許されな いということである。以来兄とは顔を合わせたこともない。
良い兄だった。年上の兄姉に有りがちな高慢な振る舞いもなく、幼すぎると子供 扱いすることもなく、ルカを一個人として見ることが出来たし、加えて 、教えるという行為を惜しまなかった。ルカは世界を構成する諸物の多くを兄か ら学んだ。
ルカとしても、兄の知識が自分の内部に堆積してゆくのは嬉しい事だった。 知識は思索に通ずる 。知識の分布の片寄りによって兄の見識を推し量る事が出来る。いわば、ルカの 脳中には兄の思考回路がそのままの状態で保存されている。そう考えると、ルカ の思索は兄の相似形だと言えた。
そうして今、ルカには兄の残してくれたこの知識だけが残されていて、兄の言葉 を何度も再生するのだ。閉じ込められたドームが刑務所であるなら、移民は犯罪 者? 罪は何? 罰はくだされている? 徐々に狂気を帯びていった兄は、いったい何 を見ていた? ルカは天上を見上げる。
疑問は日々極大化する一方で、もうルカの体には収まらない。毎日美しい天体の 運行に隠された欺瞞。
かつてルカは兄をどうにかして警察から解放できはしないかと画策したことがある。そ の時にある噂を聞いたのだ。
―――警察に捕縛された者はドームの天井から外に放り出される。
真実の所は分からない。単なる噂だといってしまえばそれまでだが、それだけで は済まされないような気もした。それ以来兄の姿に死の影が被さっているように みえて仕方無い。兄は、死んでしまったのだろうか。
ルカには、ずっと以前から計画している事があった。このドームには修理用の梯子 が設置されていて、それはドームの頂上まで続いている。天井から人を放り出すと したらそこしかないのだが、計画というのは、その梯子をのぼってみるというもの である。ふと、今日実行に移してもいいのだと思い至った。
唐突に思いついたその考えが案外にいい案であるような気がして、 ルカは梯子の登り口に向かって歩き出した。
比較的規模の小さいドームだったので、端にはすぐに行き着いた。金属の骨格の間 に強化ガラスを何十にもはめ込んだこの居住区は、一瞥したところ半球状の巨大 な温室のようにも見える。その側面に続く長くか細い銀梯子。ドームの歪曲に併 せて緩やかなラインを描く二本の軸棒。
ルカは僅かの逡巡の後、その梯子に手を掛けたのだった。



湾曲の梯子を登りながら、いつまでも続くようにも思われる銀色にルカは幻惑されてい る気分だった。様々な思考が浮かんでは消える。
―――警察に捕縛された者はドームの天井から外に放り出される。
いかにもありそうな事だ。警察に言った人間は滅多な事では返ってこない。こんな小さ な居住区だから警察も自治団を少し大きくしたような小規模な集団なのだ。これまで 捕えられた人間全員を留置しておくには小さすぎる。だとしたらどこかで拘置した犯罪 者を始末していると考えるのが自然の流れではないか。無論、天井から投げ捨てられるわ けだから無事で済む訳がない。つまりは一種の死刑である。ガラス張りのドームを滑り 落ちてゆく兄の遺骸の光景は、意外な程の鮮明さではっきりとルカの脳裏に想像される。
鈍い銀色の梯子はまるで永久に続くように果てが無い。ガラスの向こうに正確な楕円の 軌跡を描く天体があるように見える。
ルカは不意に、天井の空は絵ではなくてホログラフィなのかもしれない、と思った。天 は回っていて、ここには昼と夜があるのだから、少し考えてみれば自明なことである。ルカの顔 が曇った。普通子供相手といえどもホログラフィを絵とは言わないし、それに兄はルカ を子供扱いをしなかった。どころか、些末なミスも嫌がるような神経質な人だったのである。それ では兄はあの頃からすでに狂疾の病を患っていたのだろうか。
兄の模倣である自分も遠からず狂ってしまうのだろう、ある確信でもってルカはそう知 っているのだ。
梯子はもう頂点に近い。四角い肩幅くらいの蓋が天井にあるのが見えた。
あそこから兄は突き落とされてドームの壁面を滑って落下した、そんな考えはあまりに 自然で、ルカは何がしかの切ない気分を味わった。握りこむ鉄の棒はひんやりとしてい る。とうとう最後の一本に手を掛け身体を引き上げると、眼前に蓋が存在していた。鍵 はかかっていない。
兄は何処へ行ったのか? 高まる動悸を抑えるように呼吸を一つ吐くと、ルカは蓋をゆ っくりと押した。ルカの推測では、この蓋の向こうにはホログラフィを投影する為の映 写室があるはずだった。ぎぃという音と共に、あっけなく蓋は押し上げられる。ひんや りとした空気がドームの中に流れ込んできた。ルカは唇をかんで数瞬逡巡した後、完全 に蓋を押し上げて向こう側へ顔を出した。
そこでルカが見たのは、黒い天球に氷の粒をばら撒いたような星空だった。極限まで大 気の塵を取り除き、気体ですらも希薄な程澄んだ空気は透明な幕を何十にも張っていて、 その彼方には南極の氷を砕いた欠片を撒き散らしたような冷たく透き通った光が無数に 輝いている。驚きで小さく声を漏らすと、その息は白く凍って霧散した。現状が把握で きず、ルカは周囲を見渡した。
ところどころ霜の置かれた荒野は遥かに地平線まで続き、この惑星が丸いのだと知らせる ように果てで曲線を描いている。振り向いて逆側の地平を見れば、そこには染み入るよ うな夜気を撥ね付けるようにすっくと立つ針葉樹が森となってドームの周囲を囲んでい た。ルカはようやくここが外なのだという事に気付いた。
初めて思い至ったように足元の方を見てみれば、ドームのガラスの向こうに小指の先程 の大きさほどの建物がそれぞれに灯りを点してひしめいている。雄大で透明な外の 眺めに比較すれば、それはひどく不思議な光景であるように思えた。
ドームの天井には映写室など無かった。あの温室じみたガラスの建物の中から見上げた 夜空は、本物だったのだ。ホログラフィなどではなかった。外の世界には星があり酸素 があり木々がある。その様子はいつか見た地球の映像に似ていた。遠く離れた故郷の第 三惑星……この星は徐々に地球と化しつつあるのだと、ルカは思った。寒さで頬がぴり ぴりして、思わず身を縮まらせ、心のうちで密かに呟く―――世界は、なん て、美しいんだろう。
眼下に広がる凍土と上空の寒天を瞳に納めて、ルカは顔を綻ばせた。兄の帰還にかける 思いはいつのまにか祈りから確信へと移り変わっていた。兄は必ず帰って来る、この氷 が溶けて春の薫風が吹く頃には必ず、ばつの悪そうな微笑に穏やかな喜びを浮かべて。 その様子を思い浮かべ、ルカは僅かな笑いをこぼし、海王星の凍て付く空気を胸にすい こんだ。