...in the forest
昨日忙しなく乗せられた飛行機の向かった先は山形県であった。県名に相応しく、山
だらけの土地である。こういう所に来たからには森林浴の一つでもせねばなるまい。
都市に暮らしている頃では想像もつかなかったが、この県に来て初めて知ったのは、
未だ日本にもこういう土地があるのだということである。少し分け入れば人の手のは
いっていない森林に行き会う事が出来る。
幸い旅館の周囲は霧深い山である。暇を見て散歩に出ると言い置いて木々の茂る森に
分け入る。一応道らしきものはあるが所詮は獣道である。見上げれば枝が交差しあっ
ていて日の光が届かない。湿った土の匂いに、煩いくらいの生命の緑色。此処は異界
であると認識せずには入られない。
草を掻き分けて道を作る。足元を小さな虫が逃げてゆく。木には蔦類が絡み付いてい
る。何もかもが渾然一体となって、まるで森はそれだけで一つの生命体である。何故
だか嬉しくてたまらない。いい気分で散策していると、一つの大石を見かけた。
大きな石である。僕の腕に抱えて余りある位だろうか。大変古い石のようで、表面は
苔むし、石と地面との境目は曖昧になっている。苔が水気を含んでいるせいで、石全
体がひんやりと水気を湛えている。苔には繊毛のようなものが生えていて、傍目から
見ると石に毛が生えているようである。そういう石を見ていて、一つ思いついたこと
がある。
例えば人間がいて、目の前にいる生物を今にも殺そうとしている。けれどもその生物
を見て、殺すのを躊躇うこともある。その時生物が兼ね備えているどんな条件が人間
を躊躇せしめるのかというと、体温と体毛なのだそうである。つまり人間は、触ると
温かくて毛の手触りがある動物を殺すのは忍びないと思うらしい。
今僕が目にしている石には毛が生えている。実際に毛を生やしているのは苔類だが、
細かいことは問うまい。さて、後は体温さえあれば、この石は立派に動物としての体
裁を整えることが出来ると言うわけだ。石は鉱物だから動物ではないが、こういうこ
とを考えていくと案外動物として扱ってもいいかもしれない。
世の中には眠ったまま一生を終える動物や、生きている間栄養補給を一度もすること
のない動物などもいるのである。ならば、この石を動物扱いしてはいけない所以はあ
るまい。僕は石を撫でた。すると、石はくすぐったがる様に身をよじってみせた。石
とて、此方が誠意を見せればそれなりの態度を取ってくれるのである。