十字を背負ったキリストが、ゴルゴダの丘を登る。
ヴェロニカは空を見上げた。遮るものの無い、冴え渡った晴れ空だった。
ヴェロニカは自然、口角が笑みを刻むのを感じた。
ひどく気分が良い。
「ああ、まるで世界中が私を祝福している」
祝福というのなら、そう、これこそが祝福。
ヴェロニカは丘への一本道に佇んでいた。周囲には人っこ一人居ない。皆、処刑場であの男が磔にさ
れるのを心待ちにしているのだろう。
ヴェロニカの透き通るような碧眼が、一本道を見下ろす。
この道は、彼方まで続く一本道。丘の上の処刑場へと行く為の、ただ一つの行き路。
今この道を一人の男が身の丈程の十字を背負い、登ってくる。ユダヤに逆らった異教徒の指導者が。
ヴェロニカは笑った。艶やかに鮮やかに、見る者の心を奪う笑みだった。
いい気味です。あの男にはそれでもまだ足りない位。
私に与えた恥辱を思えば、まだ足りない位。
ヴェロニカは忘れない、あの男の私に与えた屈辱を。神に対する尊大な反逆の旗印を。
人はあれを救世主の御業と呼ぶのかも知れない、だがヴェロニカは断じて許さない。あの男を、イエ
ス=キリストを。
ヴェロニカは思い出す。あの男に受けた恥辱を、自分の信じる神の御加護が、地に落とされた瞬間の
出来事を。
あの男の起こした、奇跡という名の災いを。
ヴェロニカは幼い頃から善良で信心深い、敬遠なユダヤ教徒だった。
毎日の祈りを欠かした事は無く、過ちを冒さず、神の教えに忠実に生きる、清らかな少女だった。
彼女は、生まれついてある病にかかっていた。
名も知られていない奇病、死に至る重い病だった。
体中から血の溢れ続ける病、徐々に体内から染み出る血液は止まるところを知らず、常に彼女を苛み
、満ち足りた休息の時を与えることは無かった。
産まれて間もなく病床についた彼女は、外の空気を知らない。
彼女はありとあらゆる自由を制限されていた。
例えば彼女は、地を踏みしめる喜びを知らなかったし、野原で深呼吸をするその清々しさを知らなか
った。また同年代の少女と交わる事も出来なかったし、綺麗なドレスで身を飾る事も出来なかった。
彼女に許されていたのは、ベッドの上にある小さな窓から切り取られた空を見上げる事位で。
幸せとは言い難い生活。
しかし、彼女はその病気を憎んではいなかった。どころか、歓迎してさえいた。
彼女は言う。
「例えば一人の人間が、飢えで苦しんでいます。例えば一人の人間がお腹一杯にしています。
この場合、どちらが哀れか尋ねれば、九十九人は飢えた人間と答えるでしょう。罪も咎も無く苦し
む貧人の方が哀れだと考えるでしょうね。
けれど本当はそうではないのです。哀れなのは裕福な人間の方なのです。
人間の、人によって苦しむ量が違うのは神がその人間の徳に相応しいだけの試練をお与えになってい
るからです。貧しい人間が飢えに苦しんでいるのは、神が彼はこれだけの苦難に耐えられるだろうと
認めた、いわば選ばれた人間だからなのです。富んだ人間は一重に徳の少ない人間、天国にいける権
利をもたない人間なのです。
貧しい人間は現世で苦しんだ代わりに、天国へと行き、来世では非常に恵まれた優秀な人間になるで
しょう。
現世におけるあらゆる苦しみは、神の与え賜うた試練です。私の病も同様に言えます。
私が今苦しんでいるのは選ばれた人間だから、この痛みに釣り合う徳を認められたから。
私は幸せです。神は私を認めておられる。何を思うところがありますか?」
ところが、ヴェロニカの身体には限界が近付いていた。長年に渡る闘病生活は彼女から病に抵抗する
力を奪いさっていた。
死の影は刻々と彼女に近付きつつあった。
そんな時の出来事だった。
彼女の家に、ある男がやってきたのは。
多くの弟子を引きつれヴェロニカの家の戸を叩いたその男はイエスと名乗り、一瞬のうちに彼女の病
を治しきってしまったのだ。
ヴェロニカは嘆いた。悲しんだ。
本来病とは神の試練、神の赦しをもって、自然の治癒によって治療せねばならないものなのだ。病の
治る時があるとすればただ一つ、神の思し召しによる時のみ。
病人は苦しまねばならぬのだ。苦しまねば天に登る資格を得られないし、また試練の意味を成さない
。
男は不思議な力によってヴェロニカに治癒を施した。自然の力によってではなく、不自然な、元来あ
ってはならない力によって。
それは、神の意志にもとる行為だ。
ヴェロニカは恐怖に凍るような心地だった。ヴェロニカとて、同罪だ。神は私を認めてくださったの
に、私はそのご好意を無に返すような真似をして。浅ましい。ヴェロニカは罪を冒した。
その夜、ヴェロニカは夜を撤して神に懺悔した。祈りを捧げ、ひれ伏した。
そして思ったのだ。
あの男は許してはならない。
ヤハウェに背く背徳者だ。
奇跡を装った悪魔の術で私を侮辱し、神の意志を台無しにする、許されざるべき裏切り者だ。
生かしてはおけぬ、八つ裂きにされてしかるべき存在。
ヴェロニカは復讐を誓った。
必ずやあのイエスに罰を与えると。あの男に九死の苦痛を与えると。
神をも恐れぬ大罪者を、私は許さない。
一本道を登ってくる人影が見えてきた。
ヴェロニカは目を凝らす。たった一人登ってくるその男は、巨大で酷く重そうな十字架を背負っていた。
ヴェロニカは一人でに頬の緩むのを感じた。
―――――間違い無い。あれこそが、イエス。
これから処刑される男。私を、神を侮辱しおとしめた悪魔のような男。
イエスは足を傷めている様子だった。一つ歩を進めるのも苦痛な様に、ゆっくりとゴルゴダを登る。
ヴェロニカは、辛そうに歩くイエスに悠然と近付いた。
「―――――イエス様」
イエスは答えない。ただ苦しげに処刑場へと足を進める。
ヴェロニカは喜びにうち震えた。………いい気味。それは私の誇りを殺し神の御心に泥を塗った、愚かな
貴方の罰。
後悔するがいいわ。何もかももう遅い、貴方の運命はもう閉じてしまったのですから。
ヴェロニカは歓喜にむせぶ。やはり神は見ておられた。ヤハウェは私の味方。
私のヤハウェ。感謝いたします。私の心は、貴方様だけの物。
イエスはただ黙々と歩を重ねる。殺されるためだけに、このゴルゴダを進む。
ふと、ヴェロニカはイエスの顔に目を向けた。
汗と血に塗れたその顔は傷に覆われ、刻まれた皺も深く、歪められた顔つきも惨憺たるものだった。
ヴェロニカは勝利に酔う。なんて哀れを誘う様でしょう。
最早、彼女の勝利は確定していた。ヴェロニカは、懐から一枚のハンカチーフを取り出した。
純白のハンカチーフ。
ヴェロニカはその純白でイエスの顔を拭う。
そして、言った。
優越に満ち足りた言葉で。
「―――――貴方に、神の御加護のあらん事を」
祈りの、言葉。
ヴェロニカは、イエスに祝福の微笑みを振る舞った。
そして、思う。
貴方は救世主(キリスト)などではない、七つの大罪を冒した謀反者。神を信じぬ神殺し。
磔は、貴方にこそ相応しい死に様です。
イエスは答えない。ただ密やかに、ゴルゴダを登る。
もう、ヴェロニカに何かする気はなかった。後は神が、全ての鉄槌を下すであろうから。
ヴェロニカは立ち止まり、一本道を見上げた。
この道は、彼方まで続く一本道。丘の上の処刑場へと行く為の、ただ一つの行き路。
丘の上、罪人の最後に見る、地平線まで続くゴルゴダの一本道。
ヴェロニカは、イエスが十字を引きずり処刑場へと向かうのを、黙って見送った。