いつも電車は四両目、東口を出たら大通りを抜けて歩道橋をわたり、人通りも華やかな交差点へ向か う。
目的は無い。
何をする訳でもなく、交差点の真ん中に立ち止まりぼんやりと人の流れを眺めそびえ立つ煌びやかな 摩天楼を見上げる、ただそれだけの為だけに青年は毎日電車に乗り人波に揉まれ歩き続ける。
もう何年もこの意味の無い往復行為を続けている。
電車を降りれば待ち構えるのは無関心な人の波、能面のような表情で青年を押し流し埋没させる 。集団に紛れ人々と同じ一塊となると、その群体から外れることに不快感さえ感じるようになる 。集団から離れ個人となる事に恐怖すら覚える。
青年がこんな道理の無い行為に夢中になるのは、或いはその為からなのかもしれなかった。自分と いう個人を捨て去り人波という群体の一部分となる事は青年にとって一種の快感であった。己という 概念が曖昧となる不確定さ、周りと一体となる不可解な心強さが青年はとても気に入っていた。
意味などなかったのだ。青年はただ毎日急き立てられるように交差点へと向かう。急に立ち止まり 円滑な流れを阻害する青年を見て眉をしかめ迷惑そうな顔をして避けて通る人々、けれど一瞬後には 青年など存在しなかった様にふるまう、その様を眺め、飽きれば、嘲笑い押し潰すような分厚い灰色 空を見上げる。元はそれだけであったのだ。そこにはただ切り離された無力感と奇妙な満足感しかな く、確かに行為に意味などなかったのだ。
もしかすればそんな無意味な行為を続けていたのは必然であったのかもしれない。それは、彼女にい ずれ出会う為の必然。青年はある日、初めて群体でなく個人で存在す る人間を、彼女を見付けた。彼女は集団から孤立していて、だが人外の様に美しく、それ故に青年を 引き付けた。孤独ではない、孤高。
他人の意志によってではなく自分の意志によっての、孤立。彼女はしなやかに強くしたたかで、青年 に物語中の聖女を想起させた。
無意味な日常が鮮やかに意味を持ち、脈動を始めた。青年の無力感は、ひそやかな興味と関心にすり かわった。彼女は能面のような一般人とは違う。
青年の愚かな行為に、意味が生まれた。
それは彼女を観察する、という。








交差点








彼女が何をしていたかと言えば、それはひどく簡単な事であった。
誰であっても出来る事であったし、事実彼女だけの特別な行為という訳は、全く無かったのだ。
だから彼女にとっては、当たり前の事を当たり前に振る舞っていただけであったかもしれない、十分 に有り得るだけの可能性でもって。
そんな彼女の何が青年の目を引いたかというのは、簡単に回答出来る。場所がその行為にそぐってい なかったからだ。行為と状況のミスマッチは、青年の目を引き付けるだけの非日常性はあったと言え る。
彼女は、歌っていた。
青年が毎日通っていた交差点の片隅で、最初からそこが彼女の居場所だったと言わんばかりの自然さ で、彼女は歌を歌っていた。
始め青年は目を疑った。
この往来で当たり前のように堂々と歌う彼女は何者なのか。雑然とした街並に彼女の清廉な歌声は全 く似合わない。であるのに、不思議と場に馴染んでいる様子に、もしかすれば今までずっと自分が見 落としていただけなのかと思った。
皆が足早に歩く交差点、その隅の方で彼女はゆったりとした歌声を奏でている。
低いような高いような、消え入りそうなか細い声であるにも関わらず不思議と耳に残って離れない 。その声音はひどく哀しげで寂しげで、青年を何か切ないような気分にさせた。

  背中に羽があれば良い。
  そうすれば遠いあの人の元へその翼で駈けていけるだろう。
  蝶の羽では時間が掛かる、鳩の羽でもまだ遅い。
  願わくば、私の背に、天使の羽を。
  早く駆け付けてあげたい。あの人のもとへ、私の羽根で。

オペラのように張りがある訳でもなく、クラシックのように格調高い訳でもない、高きから低きへと 流れるような静けさを持った、敢えて言うなら葬送曲に似た静謐のある音。
青年は耳を澄まし、少しの間その声に聞き入った後、満たされた気分でゆっくりと交差点を後にした 。
耳の奥では、彼女の静かで哀しげな歌声がいつまでもこだましていた。






次の日もその次の日も、青年は毎日交差点に通い続けた。電車の四両目を降り、東口を出たら大通り を抜け歩道橋を過ぎ、人通りも華やかな交差点へ。その内に、青年の目的は人波に埋もれる事か らいつのまにか彼女の歌を聴く事に変わっていた。
この世の者とも思えない歌声はいとも簡単に青年を魅了し虜にした。彼女の歌声は群衆の足を止める 程の声量は持たなかったが、静かな響きは青年の心を掴んで放さない。彼女の歌は青年を寂しい気持 ちにさせ、同時に優しく癒しもした。
彼女は同じ曲ばかりを口の葉に乗せる。その内に青年の拙い英語力でも、聞き慣れ始めたメロディー から微かながら彼女の英語歌詞を聞き取れるようになった。





青年は家に着くと、他の何をするよりも先に自分の部屋の古びた学習机の元へ向かった。
薄く埃の積もった机を乱暴に手で一払いし、備え付けの棚から使い込まれた英和辞典を取り出した。 マーカーのひかれた単語を目で追いながら、紛れもない興奮で震える指で必死にページをめくる。
頭の中では彼女の歌声が繰り返し流れている。その音に合わせて青年の口から歌詞が自然と零れ落ち る。もう青年は空で口ずさめる程に彼女の元へ通っていた。熱に浮かされた様に手を動かす。

  背中に羽があれば良い。
  そうすれば遠いあの人の元へその翼で駈けていけるだろう。
  蝶の羽では時間が掛かる、鳩の羽でもまだ遅い。
  願わくば、私の背に、天使の羽を。
  早く駆け付けてあげたい。あの人のもとへ、私の羽根で。

ふと、平静に返り、疑問を覚えて歌詞を口ずさむ。再び分厚い辞書に視線を落とした。
引っ掛かったのは最後の一文。

―――――早く駆け付けてあげたい。あの人のもとへ、私の羽根で。

しばらく意味を噛み締めるように考えて、理解した瞬間、青年は辞書を取り落としそうになった。力 が抜け、へなへなと床にへたり込む。
ああ。青年は小さく呻きを飲み込んだ。ああ、ああ。
彼女の切なげな歌声の理由を知った気がした。寂しい孤独の歌声。
彼女は待っているのだ。此処に居ない誰かを。或いは、帰ってこない誰かを。おそらくは、恋人を。 青年は落胆とも嫉妬ともつかない狂おしさを覚えた。
心の僅かに軋む音がした気がする。
抱いた感情は複雑に濁り澱み、身を重くさせた。冷たく指先が凍える。恋人。恋人―――――彼女に は恋人がいる。
青年は衝撃を受けている自分に気付き、ひどく惨めな者になった気がした。何も知らずに彼女に 焦がれていた自分が殺したい程に憎たらしい。青年は音も無く茫然と立ち尽くした。
彼女には恋人がいるのだ。すでに相思相愛の相手がいるのだ。自分は恐らく、邪魔者でしかない。毎 日見つめていた事でなんとはなしに親近感を覚えていた彼女の存在が急に遠退いた気がした。
青年は無言で辞書を机の上に置いた。歌詞など調べるべきでは無かった。青年は深く考えずに辞書を 手に取った自分を悔いたが、後悔は先には立たない。
しかし全ては遅すぎたのだ。青年はすでに彼女に抑えきれない程の恋愛感情を感じている。今更それ を無かった事には出来ない。
冷たくなった指でこめかみを押さえた。虚しさが心を捕らえた。






それでも青年は交差点へと通い続けた。
もはや明確な目的など無い、只彼女の姿を求めてふらふらと外に出て、気付けば交差点に居る、そ んな風に毎日過ごす。日々は無感動に過ぎていった。
彼女の歌は、やはり切なく物悲しく、青年はその意味を知っているだけに尚更複雑な心境である。物 憂げに伏せられた目が青年を捉える事は無い。
ついに青年は、彼女に尋ねた。
「いつまで待っているのです」
彼女の歌を遮るように。青年は尋ねた。
初めて彼女の歌が止んだ。
「いつまで待っているのです」
青年は繰り返した。彼女は唇を軽く引き結び、意外な位に理知的な目で青年を見つめた。
初めてぶつかった視線に、青年は確かな満足を感じ、彼女の返事を待たず畳み掛ける。
「帰って来ない者を待って、いつまで時間を無駄にするつもりなのです。その人はそうまでする価値 のある者なのですか?」
彼女は微動だにしない。無言で青年を見据えている。
しっかりとした理性の光が自分を捉えている。それだけで青年は堪らなく幸福な気持ちになった。 もっと自分を視てほしい、その一心で青年は言葉を重ねる。此処に自分が居ることを理解してほしい 。
「何故待つのです。貴方も分かっているのでしょう、意味無き行為だと。そんな事は忘れてしまいな さい。それが貴方の為です」
青年の強引な物言いにも、彼女は全く動じた様子が無い。ただただ静かに青年の姿を瞳に映している 。その眼は明白な意志の光を放っていた。
彼女の無反応に青年は焦れ始めていた。彼女はあまりに怜悧に見えるので、自分の言葉がどれだけ彼 女に残っているのかひどく不安になる。
「もう待たないで下さい。貴方は周りを見ていない。
 ―――――僕はずっと貴方をみているのに」
青年は、やっと言葉を切った。言うべき事を言い切り、ようやく余裕を持って彼女を見つめる。
青年は真摯に気持ちを伝えたつもりであった。少しは心を動かしてくれるだろうかと思ったが、しか し彼女は何一つ動揺せずに、青年を観察しているようだった。青年は僅かに失望した。やはり伝わら なかったのであろうか。
彼女は、落ち着いた所作で一度ゆっくりと瞬きをした。
そして威厳ある優雅さでもって、穏やかに、けれど断定的に言った。
「私は私の為に待っているだけです。誰の為でもない、私の平安の為だけです。だから止めません。 止めれば明日から何をすれば良いのか分かりませんので」
彼女はあくまで平常で、顔の色一つ変えない。青年を縛るその視線にあるのは深い知性のみで、青年 はその静けさ故に、自分の高揚した頭の冷めるのが分かった。
「申し訳ありませんが、貴方を“彼”の代わりにするつもりは毛頭ありません。貴方は私を知ってい るかもしれませんが、私にとって貴方は赤の他人です」
彼女はそう言って、憐れみを込め青年を見つめた。青年の目をまっすぐに見ていた。
けれどもその時、青年は気付いてしまったのだ。彼女の目は、青年を通して何処か遠い処を見ていた事 を。青年に誰かを重ねて見ていた事を。青年は理解してしまった。
彼女は、まだ遠い人を思っているのだ。青年は悔しげに唇を噛み、思い知らされた事実を噛み締めた 。今この瞬間でさえ、彼女は自分を知らない。
耳元で囁きが聞こえた気がした。今は一層彼女の歌声が鮮明に思い出せる。