人魚姫………人魚姫かね。
とんだ不条理小説もあったものだ、あんなナンセンスを真顔で書く辺り、アンデルセンという男もた
かが知れている。我はそう確信しておるが。
そうだな……我も物を書きて生きている人種ゆえ、あのむず痒いような偽善の匂いのする文には心底
吐き気のする思いである事だ。
我ならもっと素晴らしいストーリィに仕上げうる筈であるよ。 ―――――おや、何を笑うかね?
主、よもや信じぬつもりか? ………何、信じる術が無いとな?
ああ、それも当然の主張であるな。成る程、己のが眼を以てのみ信念とする主の言はなかなかのもの
哉、我に太刀打ちの術無しだ。
主の意見はもっともであるよ。
ああ、では我も暇である事だし、よろしい、では此処に証明をばしてみせようか。
なに、明瞭な話だ。我がただ今に語ってみせよう。
聞き給えよ、我を語り部とする、真実の、嘆きの人魚姫の物語をな。
嘆きの人魚姫
古来から、人魚と人間の恋話と言うのは多く語られてきたが、それにはちゃんと訳があるのだ。人
魚姫は自分と同じ魚人の種族が王に拝見しているのを上座の王女の席からぼんやりと眺めながら、そ
んな風に毎日考えていた。きちんとした訳が。
人魚というのは詰まる所、半人半魚の異形である。人間の書く御本等では若く美しい女の上半身に煌び
やかな鱗の下半身を持つ世にも稀な美貌の女性として描かれているが、実際の処そんな筈がある訳
も無いのだ。
太陽の光の差さぬ深海では、目も退化して虚ろな眼窩のくぼみだけが残り、大層不気味であるし、
激しい海流の流れに逆らった身体は、全身を硬い鱗に包みこむ事で身を守り、頭皮迄それに覆われた身体
には一本の体毛もない。その鱗の色だって、この醜い外形に似合いの鈍い泥色をしていて、煌びやか
にはほど遠い。水中で生き抜く為に身についた限りなく魚類に近い体型も手伝って、ひたすらに嫌悪
を誘う様である。
そんな様子だから、誰も魚人同士でつがいになろうとはしない。皆いつしか人間に憧れ海を捨て、大
地の上で生涯を供にする伴侶を見つけて、魚人族の身分を破棄するのだ。
誰も彼も、魚人として生きていく事にもう飽き飽きしていた。海の底で静かに暮らすのはひどく退屈
で面白みが無い。魚人族の人口は減少の一途を辿り、最早王国中の魚人が死に絶えるのも時間の問題
であると言えた。
人魚姫は王座を見た。父王ももう随分な年である。枯れ枝のようにか細い身体は、吹けば飛び去りそ
うでさえあった。
人魚姫は小さく、周りの者にそれと知れない位に溜め息をついた。そろそろ潮時なのやも知れない。王
国を解体するべき時だ。人魚姫はもうくたびれてしまっていた。地上にゆきたい。
幸いな事に、初めて海面に出る事を許される、十五の年の儀も間近であった。
ここからは定石通りだな。
魔女の助けにより人間と成れる秘薬を手中にした人魚姫は、十五の年の儀に乗じて地上に降り立つ
。
その類い稀な美貌で人間の王子に見初められた彼女は、しかし王子の歪んだ愛情によって、王宮で
王子の飼い殺しとなるのだよ………
人間の形を得た人魚姫は、地上でも王宮で暮らす事となったのだった。
なんて退屈なんだろう。これでは海底にいる時と何ら変わらない―――――海底の城では宮廷内を自
由に動き回れただけ、まだましであったかも知れない。此処ではこの部屋を出る事すら許されない。
人魚姫は、王宮内のある一室に閉じ込められていた。
細かい事は覚えていない。確かなのは人間となった人魚姫をこの国の王子が拾ったらしいという事。
目覚めれば、人魚姫は無事に人間へと変身を遂げ、すでに王宮の一室に眠らされていた。
鱗の無い、妙につるつるとした印象の人間という生き物はひどく区別が付きにくく、人魚姫には皆同
じ者に見えたが、人間同士には何かの手段で見分ける術があるのだろう。人間の王子は自分の容姿に
並々ならぬ興味を示したようで、熱心に自分をかき口説き、この彼自身の用意した部屋を頻繁に訪れる。
しかし、今だに人魚姫には、王子とそれ以外の人間との見分けが付けられなかった。
閉じ込められて、何日たっただろう。
その間この部屋を訪れる人も数名いたようだったが、人魚姫にはそれらの人がいつも同じ人間なの
か、それとも別の人間なのか判断しかねた。
日に三度運ばれてくる食事―――――いつも同じメニューで、パンと肉の様なものの浮いたスープだ
った―――――は、何か不思議な味がした。スープという物を初めて味わった人魚姫は、こんな物なの
かと首を捻った。酸っぱいような苦いような、なんとも形容しがたい味。
地上は、何もかも海の世界とは勝手が違う。言葉も習慣も規則も信教も。かつて深海の姫であった事
を思い起こさせる物は、此処には何一つ無い。
人魚姫は姿見の前に立ち、己の姿を凝視した。
何かびらびらとした服のまとわりつく身体は皮膚が丸出しで、危なっかしく頼りない。肩や腰
が細く、二本足で歩く様子は安定が悪く落ち着かない。
人間はエラも無ければヒレも無い、ひどく出来の悪い生き物だと思った。
深海の王国で上座に座っていた頃あれ程憧れていた人間の生活も、今となってはただ退屈なだけで
、何の感慨も湧かない。
過ぎ去ってみれば、あの海底にいた頃が懐かしい。静かな日々、穏やかな人々、安寧な世界。
この地上では手に入らない物が、あそこには数多く存在していた。
人魚姫は自問する。どうして自分からあの生活を捨て去ってしまったのか。王女はまがりなりにも王国の王位継承者であ
る。自分が国を捨ててまで手に入れたかったものとは何であったのか。
王国は滅亡の危機に瀕していた。けれども、まだ死んではいなかったのだ。まだ復興する可能性だっ
てあった。なのにどうして、自分は王国を捨ててしまったのか。
もし滅亡するのであっても、己の唯一無二の故郷を、最後まで見取るべきでは無かったか。
それが王家に産まれた者の使命では無かったか。国民の上に立つ物としての義務では無かったか。
人魚姫は後悔していた。一時の軽薄な感情に流され、安易に国を見捨てた事を、悔いていた。
父王に息子はいない。生きている時間の大半を国の政に尽力していた王は、子を設けようとはしなか
った。家庭を顧みなかった父は、国を心底愛していた。
自分以外に王位を継げる者はいないのだ。父の愛した国は、王位継承者も無く脆弱になっている今、
容易く崩壊する。
人魚姫は父王を思った。触れれば折れてしまいそうなか細い体付きにも関わらず、内側に
熱い物を持っている人だった。幼い頃は、多くの大人にかしずかれる偉い父親が、自分の誇りだった
。
人魚姫は目頭が熱くなるのを感じた。
流しそうになった涙を、けれど懸命に堪える。
力を込めて握り締めた手のひらが、色を失った。
―――――人魚姫はようやく、自分の冒した間違いに気付いたのだった。
唇を噛み締め、爪を手のひらに食い込ませ、人魚姫は衝動を堪える。泣いている暇など無い。
人魚姫は振り切るように頭を振り、そして視線を窓へと向けた。宮廷の立ち並ぶ景色の向こう側に、
懐かしい、青い青い海が見えた。
ああなんと愚劣なのだろうな人魚姫様は!
これだからアンデルセンは好かぬ、適当な事を抜かす二枚舌は現実を見ておらぬと見える。
主もそうは思わぬか? 夢など半端に思った処で腹の足しにもならん事だ。浅はかで夢見がちな人魚
の王女! 全く………つくづく憤慨を禁じ得ない物語であるよ……。
ああ、話が逸れた様だな。戻そうではないかね―――――人魚姫だ。海の国への帰還を決意した姫は
、王宮からの脱走を企てる。しかし彼女は世間知らずの純粋培養、窓の外に僅かに見えただけの海へと、そうそう
帰れる訳もないのだ―――――案の定彼女は迷い込む。宮廷の影の部分、見えざる場所へと、な。
此処は何処であるのか。人魚姫は薄暗い、空気の湿った窓の無い建物内に迷い込んでいた。
人魚姫は知らなかったが、そこは宮廷料理人の勤務所、王宮の台所と呼ばれる大調理場の設けられ
ている建物であった。
耳を澄ませば、遠くから、何かを叩きつけるような音が聞こえる。まるで固いものを力任せに板に叩きつけているよ
うな音が、断続的に。だんっ、だんっ、と。
人魚姫は震える足を、音の方へと一歩踏み出した。音は徐々に近付いてくる。大きくなってゆく音が
、暗い廊下に反響してひどく不気味な感じがする。人魚姫の頭の中で、何かがおかしいと警鐘を鳴ら
す。行ってはいけない気がする、見てはいけないものが展開されているような……。心臓の拍動が
激しく胸を打つ。
導かれているように、やがて、人魚姫は灯りの差す部屋を見つけた。音はもう割れんばかり
の音量となっている。だんっ、だんっ。
人魚姫は、おそるおそる開け放しの入り口を覗き込んだ。
灯りの下で、女中のような小汚い服を来た中年の女が、包丁を俎板に叩きつけている。ただの包丁で
はない、幅広の刃の、巨大な出刃包丁。拙い灯りをギラギラといやらしく反射させるそれを力任せ
の乱暴な動作で俎板に振り下ろしている。
人魚姫は目を凝らす。振り下ろす出刃包丁の下、俎板の上に何かが置かれている。
包丁は、そこを目がけて乱暴にされているようだった。出刃が鈍いうなりをあげて切り掛かる度に、そ
れは生き物のように小さく躯を跳ねさせる。
あれは何だろう。人魚姫の頭の中でしきりに警鐘が鳴り響く。あれは見てはいけない物である気がす
る。今すぐ引き返して此処を出なければいけない。けれど意志に反して身体は引っ張られでもしてい
るように引き寄せられてゆく。目線が俎板の上から離れない。
人魚姫は見つめた。俎板の上のそれは、何か見慣れた物であるように見えた。
眼をこらす。
それは、泥めいた色の鱗を持っていた。虚ろな眼窩で、限り無く魚類に近い体付きをしていた。海底
で散々見慣れた姿をしていた。
人魚姫は目を見開いた。俎板の上のそれは―――――ひどく見覚えのある形をしていた。
海底王国の世界の住人の―――――それは、魚人の姿をしていた。
呼吸が詰まり、人魚姫は大きく喘いだ。俎板の上、同胞が首に武骨な鈍色の刄を食い込ませ、首の骨
を叩き折られている。頭を切り落とし、身だけを残して、捨てる。次の魚人を取出し、同じように頭
を落とす。
その瞬間人魚姫は一瞬にしてあらゆる事を悟ったのだった。
様々な考えが勢い良く浮かび上がってくる。
急激に減ってゆく魚人の人口。地上に行ったまま二度と帰ってこない仲間。
自分にとって人間の区別が付かないという事は、人間にとって魚人の区別が付かないという事に他な
らず。
そして、
毎日食べさせられたスープの中に入っていた肉片。
全ての不可解が、ほどけてゆく。
思考が停止した。
頭の芯がぐらぐらする。目眩と耳鳴りが共鳴する。足元が崩壊する。手足が痙攣する。呼吸が乱れ荒
れる。世界が反転し歪転し同心円状に崩れてゆく。
あまりの恐怖にあとずさり、立っていられずに壁に縋り付く。なんて…なんて。
人魚姫が耐えきれずに壁に爪を立て押し殺した喘ぎを洩らした時、唐突に何の音も立てずくるりと女
中がこちらを向いた。
手には出刃包丁を持ったまま、能面のような無表情で。死んだような目の色で。
青白い女の顔に、出刃の反射するぎらついた光が揺らめく。
不意に、切り落とされた頭部の一つに目が吸い寄せられた。
大量に捨て置かれた頭部の中で何故それだけに注目がいったのかは分からない、ただまるで呼び寄せ
られたかのように視線が動いた。
その頭部が妙に見覚えのある顔をしている気がして、人魚姫は目を凝らした。
年老い、くたびれた………その顔は、
海底で最も敬い慕っていた、父王の顔をしていた。
それを認め、人魚姫は悲鳴を飲み込むので精一杯となり、立っているのが限界、くるりと身を翻し慣
れない足で逃げ出した。
これ以上この場にいてはいけない。いられない。自分は見てはいけない物を見てしまった。
人魚姫は力の続く限り走った。何処まで行っても背中にあの女中の死人のような視線が突き刺さって
いる気がする。耳元であの寒気のする出刃包丁の音が聞こえる気がする。逃げなくては、自分も仲間
と同じに殺される。頭を落とされ鍋で煮込まれスープにされて食べられてしまう。
長い髪が乱れるのも構わず、上手く走れない足に血が滲むのも忘れ、呼吸の続く限り、建物内を無茶
苦茶に走っていた人魚姫がようやく足を止めたのは外に出てからだった。
余りの疲労に人魚姫は地に手をつき肩で息をする。走ったせいばかりではない吐き気が込み上げ、植
え込みの中へ嘔吐した。
口の中に苦い物が残る。
胃液の匂いが鼻につきまた吐きそうになって、懸命に堪えた。
思い出したのはあのスープの酸っぱいような苦いような、同胞の肉の味。斬首された父の苦悶の顔。
やはり堪えられずにまた吐いた。汚らしい胃液が飛び散り服を汚す。
食べたのだ、自分は。国民の血肉を。或いは血を分けた父王の肉ですらも。
スープの肉は少し筋張っていた。あれはもしかしたら、痩せた父の腱の肉であったのやも知れない。
時折、内臓のように柔らかな肉が入っている事もあった。あれももしかしたら、喰い殺される恐怖に
味付けされた父の心の臓であったのやも知れない。
人魚姫は絶望の心地で喉を強く押さえた。そのまま力を込めて、押し潰す。ぐちゃりと、声帯が潰れ
る音がした。―――――同胞を飲み下した、こんな喉など。
それでも足らずに、人魚姫は自身の腹に爪を立てた。鈍い痛みが走り、服に鮮やかな血が滲む。それ
を見て人魚姫は思う。もう―――――お仕舞いだ。
父王は死んだ。国はもう終わってしまった。同族の肉を食って生命を繋いでいた自分などが、王位を
継げる筈もない。王家の血筋は途絶えた。
麻痺したようにぼんやりとした頭で人魚姫は考える。古い御伽話では、大罪を冒した魚人の女は、泡
あぶくとなり海へと還されるのだという。遠い昔、乳母が寝物語に語ってくれた。大罪という
のなら、これ以上の罪もない。
おあつらえ向きに、庭には静かな池があった。
人魚姫はふらふらと池に近寄る。死によって詫びが出来るとは思っていない。が、もう自分は生き
ているべきではない。
覗き込むと、そこには水面に写る己の姿があった。皮膚が剥き出しの不恰好な人間の身体。鱗に覆
われた魚人の姿とは似ても似つかない。
けれど、自分のなりたかった物はこんな物では無かった。
死後の世界に、父の海はあるだろうか。もしあったなら、自分はそこに行く事が出来るだろうか。
そして、人魚姫は静かに、水面に身体を落とした。
懐かしい水の感触に、しかし人間の身体は重く、すぐに沈んでゆく。息苦しさは全く感じない。
身体の末端が、発泡して消えてゆくのを感じた。
例えば自分が多くを望まなかったなら、父も死ななかったのだろうか。国はまた繁栄したのだろうか
。
意識も次第に発泡に掻き消されてゆく。
例えば自分に、国を守れるだけの力があったなら。
全てはもう、遅すぎる問いだが。
人魚姫は自我の弾け消滅してゆくのを待って目を瞑った。
さぁ物語はこれにて終幕という訳だ!
どうかね、我の方が余程らしく仕上がっておろう。
人魚姫は魔女に声を奪われたのではない、自分から声帯を潰し声を捨てた事だ。やはり姫たる物此れ
位の欺瞞がない事には始まらぬ物よ。
おや、主は何を腹立ちなさっておるのかね? この物語は気に召さぬか。
まぁ良いわ。全て理解しあえる物もない。
それが主と我との違いというものよ。なぁ?
軽重にして浮薄、浅薄にして蒙昧、一を知りて二を知らず、己の生まれの恩恵と幸福を知らぬ、愚か
な世間知らず。
これが我の紡ぐ、最高最低の人魚姫だ。
幸福な者ほど身の程を知らぬ、恵まれた者ほど満足を知らぬ。人魚とて同じ事よ。
主も学び取る事だ。過ぎた望みは身を滅ぼす。相応の希望を知れ。
分に見合った目的すら満足に遣り遂げられぬ者が、世界に誇れる筈もない。
さて。我の話は正真正銘これにて幕下げよ。
次は主が聴かせてくれ給えよ、面白い御伽話をば、なぁ。