目玉焼きの黄身が、割れた。
どろり。どろどろ。














 本性














目玉焼きの黄身が割れた。
半熟の目玉焼き、裂けた割れ目から黄色い中身が流れ出る。どろり、どろどろ。
綺麗な白身の皮が剥がれて、黄色い本性が顔を出す。
ああ、いよいよもって本性を曝け出したものね。女は思う。もう隠しきれないわよ。
目玉焼きは答えない。
内臓を外気に触れさせ、修復不可能を呈しながらも、まだ取り繕おうとする。
女に潰された目玉焼きは、意外な程に沈黙を保っている。
破れた目玉焼きを前にして、女は囁く。
なぁまるでお前は私のようね。
ナイフで白身の薄皮をつつきながら。女は囁く。
お前と私はそっくりよ。本当、嫌になるくらいにねぇ。
つつく度に、新たに作られた傷から粘着質な黄身が流れだす。どろり、どろどろ。
血みたい。まるで私の血の。
女は己の身体から黄色い血が溢れ出る様を夢想し、そのあまりに愉快な空想に口の端を歪めた。
馬鹿みたいじゃない。ありきたりに。いじましいわ、本当、馬鹿な事ばかりで!












「そうね」「貴方の言うとおりだわ」「私もそう思ったの」。
人生の九割は、これらの台詞で切り抜けられると女は考える。
そして事実今までの女の人生は、これらの言葉達で事無きを得てきたような物だった。
女は、幼い頃から自分が他の人間よりも少し酷薄な性を持っていることを自覚していた。女には情が 無く、世界のあらゆる人間は女の敵で、女の理解できたのは嫉妬と冷酷だけだった。その二つだけは すぐに身体に馴染んだがしかし、女は人間の慈しみ方を知らない。
だから女は常に演技をしていた。女は自分の様な人間が社会に受け入れられるとは思っていなかった 。別に受け入れられたかった訳ではなかったが、生き残るためにはある程度他人と交わらなければいけ ない事くらいは解していた。
女は演技上手で、内面のひどく荒れ果て焼け爛れている事を綺麗に隠しきったが、その為に人前では 常時演技の仮面が必要になった。
仮面は出来る限り回りの人間達に似せてつくり、それ故か周囲は安 易に騙された。可愛らしく振る舞い、少しばかり頭の弱い振りをすれば、誰も女を疑わない。 便利な魔法―――――「私もよ」。その一言だけで、皆は何の疑いも無く女を仲間として扱った。容 易いものだった。
女にとって周囲の人間は観客。見透かせた存在ばかりだった。
たまに、観客が演技する事もある。その見え透いた下手な演技に、女はいつも影で笑いを噛み殺しな がら騙された風を装った。
“自称”親友はいつも女を笑わせてくれたものである。
『あたしたち親友よね』 目出度い人。その調子なら貴方にはきっと何十人と親友がいるんでしょうね 。
『あたし――と一緒じゃなきゃやってけない』 よく言えた物ね。下手な猿芝居、それで私を愚弄した つもりかしら。
『ほんとの事、――だけにしか言わないって、あたし決めたの』 愚昧ね。貴方程度の真実が一体どれ だけあると言うの、その口は。
『嘘吐き!あたしの事好きっていったのに!』 煩わしい。姦しい。何とも思ってもいないくせに、そ んな下手な演技!
『裏切った!』 ええやかましい!何様のつもり只の観客風情が!












そういえばそんな応酬があったのも、つい昨日の事だった。その後女は、一人の観客に席を立たれた 。
別にいいと女は思っている。自分に彼女を座席に留まらせるだけの演技力が無かった、ただそれだけの 事、と。
彼女はまた別の劇場に入り、好い夢を見たいが為に騙される、ただそれだけの事。
或いは女の様な女優を目指すのかもしれない、と思う。どちらにせよ女は一切関与しない、故に興味も無い。
目玉焼きは相も変わらず女を見守っている。その身体は女のナイフによって、もう元の形を保つ事を許されて いなかった。それでも尚、女は気怠げに目玉焼きを刺す。ぐちゃ、どろり、どろどろ。
白い白い綺麗な膜に包まれた黄色い濁った汚い本性。見かけばかり丸く取り繕ったって、開いてみれ ば不定形。全く見苦しい。女は思う。私は全く見苦しい。
哀れな目玉焼きを見て、自嘲した。
自分も観客として座席につく事が許されていたなら、どんなにか良かっただろう。黄身の存在など知 らずに綺麗な白身だけを見て、その全てを知ったような気分になって、好い夢を貰い、そして飽き たら席を立つ。そうすれば、こんなに無様な姿になる事も、隠し切れずに中身をはみ出させる事も、 終わりの無い焦燥感を味わう事も無い。
ありもしない比喩は、ただ空しいだけではあるが。
女はフォークに手を伸ばした。今や原型を止めていない目玉焼きは、皿の上をその黄身で汚らしく飾 り立て、醜態を曝している。
切り分けた目玉焼きの切れ端をフォークで取り、黄色く穢れた白身を一切れ口に放り込む。
そして、じっくりと噛み締めた。
甘いような苦いような、けれど不思議と味のしない、冷たい欠片が舌にあたった。
無味な、冷たい固まり。噛めばぐにゃりと弾力を返す。
咀嚼し、嚥下した。
ひどく不味い、味のしない白と黄色の。女は皿を持って立ち上がると、流し場へと向かい、まだ二切れと 口にしてもいない目玉焼きを、シンクへ捨てた。ばちゃ、ぼたり。
下水の水溜まりで小さな水飛沫を上げたそれは、黄色い筋を残して停止、沈黙する。
鈍い色のシンクに打ち棄てられた残骸。黄色い血にまみれた自分。
全く惨めな物、と女は溜め息をついた。
下水に落とされた目玉焼きは、もう食べられもしない。



いつか自分にも人間らしい感情の宿る事はあるのだろうか。
なんて劣悪にも程がある願望も、
ついでとばかりに打ち棄てた。