ある時、貴族の娘と羊飼いの男が恋に落ちました。
不恰好に欠けた月。
豊かな娘と貧しい羊飼い。二人の距離はあまりに遠すぎて、近づく事すら許されません。
羊飼いは言いました。
「昼が二人を忌むというなら、二人は月夜に縋りましょう」
満月では明るすぎる、新月では暗すぎる。
「二人の逢瀬に相応しい、歪な月の輝く夜に、」
私は愛しい貴方の元へ。
忍び、屋敷へ参ります。
人目を偲ぶ恋人達の語らいは月に一度、十六夜の光る夜だけです。
こっそりと屋敷に忍び込んだ羊飼いが、娘の部屋の銀の窓を叩きます。
こん、こん、こん。
それが二人の合図。すると娘は窓を開けるのです。
たった一晩きりの逢瀬。
それでも、二人は倖せでした。
そうして二人は語らい合うのです。
『この幸せが永遠に続けばいい』と。
二人をいつも見守っているお月様は、そんな二人をとても愛おしんでいました。
満月の次の夜は、恋人達の為に光を増して輝きます。
愛し合う二人の幸せな時間を夜空から眺めるのが、お月様の一等のお気に入りでした。
人の寝静まる時刻、お月様は静かにその身の光で、羊飼いの足元を照らしてやります。
そして二人の月に一度の逢引きの時には、偲ばなければならない二人の姿を人の目に晒さぬよう、自
身の身体を雲のベールで隠し、暗くしてやるのです。
十六夜でない夜も、お月様は静かに恋人達を見守ります。
時折、娘は独りひっそり涙を流しました。
娘は祈るように呟きます。
「御免なさい、御免なさい」
危険を冒しいらす貴方に、けれど私は何も出来ない。
「貴方はいつも、私の為に、身を危険に晒すというに」
私はただに、待つだけなんて。
「赦して下さい…」
どうか赦して。
父を恐れて部屋から出れぬ、その癖貴方の想いを試す。
弱いこの身を、どうか赦して。
また、お月様は羊飼いをも見守ります。
時折、羊飼いは独り厳しく唇を噛み締めました。
羊飼いは自虐的に呟きます。
「この身のなんと情けない」
私は卑しい羊飼い。それ故彼女を苦しめる。
「私に財があったなら」
彼女を娶りも出来たろう。
「何たる無力」
情けない。
こそこそ隠れ、偲び逢い、罪悪感に苛まれ。
愛する彼女を苦しめる。
「私が富豪であったなら」
彼女を楽にしてやれた。
二人の総てを知っていたのは、お月様だけでした。
そうして幾つかの夜が過ぎ、季節は変わり、お月様は少しずつ形を変え、
それは、凍えるように寒い十六夜の晩の事でした。
その晩の羊飼いは、いつもより急いだ様子でやってきました。
慌ただしく窓を叩き、娘が開けるやいなや、羊飼いは弾んだ声で言ったのです。
「二人で共に逃げましょう!」
娘はとても驚いて、よく話を聞いた所、こういう事のようでした。
羊飼いは最初から、娘の父に娘と自分の結婚が許してもらえるとは思っていませんでした。貴族の一
人娘には生まれついて、爵位を継ぐに相応しい身分と財力をもった男と結婚する義務があるのです。
自分にはどちらも持ちえない事など、羊飼いは百も承知でした。
しかし、同時に羊飼いは今の二人の脆い関係がいつまでも続く事も、同じくらいありえない事だと知
っています。そう遠くはない未来、二人の間柄はきっと破綻するでしょう。
羊飼いは最初から見越していたのです。
二人が倖せになる道はただ一つ、彼女を父親の被護から引き離す事。
「村を離れ、遠い所へ行きましょう! 二人が生活出来るだけのお金は貯めました。住む家も検討は付
けています。幸い私は羊飼い。牧草さえあれば、何処でだって生活できます。
空気の綺麗な丘の上、私は毎日貴方の為だけに羊の世話をします。
さぁ、どうかこの手を取ってください。愛しい人、私は貴方の為だけに生きていたいのです」
そう言って羊飼いは娘に手を差し伸べました。熱に浮かされたように語られる言葉に、けれども娘は
何も言いません。
どころか娘はその聡明な瞳を曇らせ、浮かぬ顔で差し伸べられた手を取ろうともしませんでした。
娘は少し俯き、窓枠に置く指も力なく、小さな声で、こう呟いたのです。
「御免なさい―――――御免なさい。今はまだ決められない。どうか私に時間を下さい。どうかゆっく
り考えさせて。一月後、次の十六夜には、必ずお返事しますから―――――」
そう言って、娘はうなだれてしまったのでした。
その夜、羊飼いはすぐに屋敷を離れ、娘は独り思案しました。
ため息がとめどなく零れます。
娘は窓を開け、烏の濡れ羽色の闇空を見上げます。
其処には、毎夜毎夜眺め心待ちにしていた十六夜の月がありました。
仄白く輝くお月様も、今だけは自分を責めているような気がします。
娘は、お月様に向かい、手を組み合わせ、祈りを捧げました。
「お月様―――――」
お月様。お教えくださいお月様。
私は一体、どうすれば。
彼の気持ち、嬉しいのです。
私を思ってくれている、それは心底嬉しいのです。
これほどまでに思われている。それは嬉しく心地よい。
「ああ、だのに………」
だのに私は、迷っています。
彼の手を取る事に、ひどく躊躇しています。
わかっています、私にも。こうするより他、道は無い。二人の終わりは遠くない、そんな事など承知
の上です。
あぁでもあの手を取る事は、父君様の庇護を捨て独力のみで生きる事。
不安なのです、わたくしは。
世間知らずに生きてきた私が家を捨てたなら、きっと生きてはいられまい。
愚かに過ぎるわたくしを、あの人だって見捨てましょう。
「もしあの人に、捨てられたなら……」
私は生きて、ゆけません。
あの人はきっと夢見てる。
二人の家に、夢見てなさる。
白いシーツに美味しい食事、絵に描いたように幸福な家庭。そういう物を望んでらっしゃる。
でも私には、満たせぬのです。
貴方の望みは、満たせぬのです。
料理も出来ぬし洗濯も出来ぬ、何も知らない私には、貴方の望みを満たせない。
上手くゆく筈が無いのです。
「ああ、お月様―――――」
お教えください。
私は一体、どうすれば。
娘のひたすらな祈りに、けれども答える術を持たないお月様は、何をすることも叶いません。
ただ、祈る娘を見つめる事しか。
そうして、月日は過ぎ、お月様は痩せ細り、ついで丸みを帯び………
また、次の十六夜がやってきました。
お月様は、今日も下界を見下ろします。
見ているものは、ただ一つ。薄白く光る雪の丘の上、一筋の足跡を連れて走る羊飼い。
羊飼いの頬はかじかむ寒さと沸き上がる幸福の予感に赤く染まっています。
きっとあの羊飼いは信じて止まないのでしょう。あの娘が、自分と共に来てくれる事を。
お月様は思いました。
どうかこれから起こる出来事が、上手くいってくれればいい、と。
通い慣れた屋敷も、今日は雪景色でした。白く色を無くしたような屋敷は、ひどく冷たく見えます。
月光だけが照らす白い白いお屋敷の中、たった一つだけカーテンの閉められていない窓。それを見つ
けて、羊飼いはかじかむ頬を緩めました。
窓からは僅かに燭台の光が漏れていて、中に娘がいることを告げています。
いつもどおりの風景、でもこれからはきっと変わる。羊飼いは灯りの漏れる窓に向かって走りだしま
した。
彼女はどんな顔で迎えてくれるだろう。はにかんだように笑ってくれるのだろうか。朝、彼女がいな
いことを知った彼女の父親はやはり怒るのだろうか。でもどんなに怒っても遅いのだ。
その時にはもう、二人は遠い所にいるのだから。
二人きりの生活は、きっと楽しいはず。
雪に足を取られても、足取りは軽い。数分後には、自分達はもう此処にはいない―――――
と。
羊飼いの耳に、ひゅっ、という風を切る音が聞こえました。
気のせいだろうか、と思ったその次の瞬間。
羊飼いは足に激痛を感じ、その場に倒れこみました。
「………っ!」
雪の上に、不様に顔から突っ込みます。
右足の付け根がひどく痛み、冬の寒さにかかわらず熱く感じます。
羊飼いは己の足を見ました。
そこには、矢が一本、刺さっていました。
どうして。思う間も無く、次々と矢は飛んできて、羊飼いに刺さります。
羊飼いは霞む目をこじ開けて、矢の飛来してきた方を見ようとしました。
矢の飛んできたのは屋敷の方角、其処には屋敷の警備兵が弓を引いているのが見えます。
降り掛かる矢の雨に目を開けていられず、羊飼いは眼を閉じました。
血がどんどん流れてゆくのを感じます。体温は上昇するのに、不思議と体は冷え、ひどく寒いのでし
た。
と、不意に自分を抱き上げる体温を感じました。
暖かい。そう思った羊飼いは閉じた瞳をこじ開け、すると其処には。
二人逃げ出す筈だった、娘がいました。
娘の口が動いているのが見えます。何か叫んでいるようです。なのに声が聞こえない。羊飼いはぼん
やりと思います。ああ、もう耳も聞こえない。
そして羊飼いは鈍る頭で考えます。あの警備兵は―――――この娘が自分の事を屋敷に告げ口したか
らに違いない、と。
娘には初めから自分の手を取る気は無かったのだ、私は遊ばれていただけなのだ……そう思い至り、
羊飼いは顔を歪めました。独り浮き立っていた己がひどく不様に思え、同時に無垢を装っていた娘に
怒りが込み上げます。
娘はまだ何か言っています。もう羊飼いにその言葉を聞き取る意志はありませんでした。
羊飼いは懐に手を入れました。そこには短刀が入っています。二人きりで山賊のいる夜道を抜けるの
は危険だから、と用意していた短刀。
「…っの、毒婦、め…っ!」
羊飼いは最期の力を振り絞り、その短刀を何か喚いている娘の胸元へ突き立てたのでした。
お月様は、遥かに下界を見下ろしてため息を一つつきました。
雪の丘の上、恋人達は折り重なるように紅くなっています。
愛しい子供たち―――――また、死んでしまった。
お月様は、全て知っていました。羊飼いは娘が裏切ったと考えていましたが、本当は違ったのです。
娘は、羊飼いを弄んでなどいませんでした。娘は最初から最期までずっと、見ているお月様が倖せに
なってしまいそうな程、本気だったのです。
あの警備兵は、娘の父親が手配したものでした。娘の様子が不審事に気付いた父親は、娘の部屋の窓
際に警備兵をたたせて置いたのです。娘はその事を知りませんでした。知らずに――荷造りをして、
羊飼いを待っていたのでした。
そう、娘は荷造りをして待っていたのです。
荷物をまとめ、簡素な服に着替え、窓の外を眺めながら羊飼いがやってくるのを心待ちにしていたの
です。
娘は、羊飼いと共に、家を捨てる覚悟でいました。
お月様は、もう一度二人を見下ろしました。雪は白く、二人の血は雪原を紅く染め上げてゆきます。
紅く、紅く。
お月様は思います。どうして今日にかぎり父親は気付いてしまったのか。あと少し気付くのが遅けれ
ば、二人は倖せになれたかもしれませんでしたのに。
また、どうして娘は父親の策略に気付けなかったのか。気付いていたならば、何か手も打てたでしょ
う。
何より。
どうして羊飼いは娘を信じてやれなかったのか。娘が羊飼いに走りよったのは、彼女が裏切り者でな
い何よりもの証拠です。あの時すぐに治療していれば、羊飼いは生きてまた娘と幸福を語り合えたか
も知れなかったというのに。
お月様は悲しみました。
地上では二人の身体に雪が降り積もり、全てを白く塗り替えてゆきます。白い世界に、お月様の好き
だった二人のささやかな幸福の世界は何処にも見当たりません。
愛しい子供達。死んでしまった……。
お月様は一雫、涙を零しました。
零れた涙は、二人の上に落ち、やがて二人を包み込み凍り付かせます。
それでいい。お月様は思いました。凍り付いて、せめて永遠に二人一緒に。
お月様は、静かに涙を零し続けました。
少し欠けた十六夜のお月様の流した涙は二人を包み込み、凍りつかせ、二人に永遠の時間を約束しま
した。
けれどももう、二人の世界に、労り合う暖かい光が降り注ぐ事は、ありません。
冷たくなってしまった二人は、永遠に一緒に暮らしたと言います。