以前(それはもう随分過去のように思われるが、実際はごく最近の事なのか もしれない。『あの事』が起きてから、私のかねてから怪しかった 時間の概念はいよいよ曖昧になっ ていた)私にはたった 一人、友人がいました。
友人、友人……人付き合いに置いて重大かつ決定的な欠陥 (つまりは人間失格、引いては 人間不信のあった私には、それは (彼というそれは最早一つの奇跡類い稀な偶然の産物とい うそれ以上の意味を持ち、私は生まれて初めて人とい う生物に興味を持ち、人間に生まれえた幸せを感じ、という存在に祈りを捧げる意味を見付け…… 本当に、奇跡だったのです。
彼は文字通り完璧な人間でした。頭脳明晰眉目秀麗人望厚く(正にパーフェ クト!、並み外れて天才であり、誰より気高く、されど奢り高ぶる事も無く。
けれどいつも誰とも打ち解け合う事は無く、孤独で、どこか寂しげな(だか ら私は彼を癒してあげたくて、彼の唯一の理解者になりたかった、なりたか った、仮面を被ったように笑う人でした。
おそらく彼も私も、きっと無邪気に笑う術を知らなかったのでしょう。
私は無表情を貫き他と隔絶され、彼は笑顔のような物(けして笑顔ではない 、違うを浮かべ他に交じり込んだ、ただそれだけの違いで。
人間の心に疎く、生きている実感のないままに私達はただ与えられた時間を消費するように生きてい ました(いや、生きてなどいなかった。生きている振りをしていただけで)
私達はどうしようも無いくらい似通っていました。はた目から見れば全く似通ってなどいなかったか もしれません、けれども確かに二人は相似形だったのです。
外形(そんなただの肉の器)では無い、中身の部分で (内側の中心の、とも言うべき本 質の部分で)私達はどうしようも無く同じでした。
人間の皮を被った人間外、生きものではない『何か』、深いところで繋がりあった (だから最のあの時、     )二人。
だから、私達は出会うべきではなかったのかもしれません。合同に歪んだ二人は出会うべきではなか った。
彼は私に言いました。「僕らは出会うべきではなかった」。私もそ の通りだと『出会った瞬間から死ぬ運命』思いました。私達は 出会うべきではなかった。
同じ形の物だからこそ、二人は磁石の両極のように反発しあい 同族に苛まれ、けして交じり合う 事はありません。
私と彼は、分かり合うことが出来なかった。(あの最期の瞬間を除いて、 あの瞬間だけは







それでも、私にはたった一人、大切な友人 がいたのです。(それは過去形。 けして現在形では無い、なりえない
今は、いません。いない。いない、何処にも。何故なら、)









彼は私が、しました。


















 21 : 刻まれたもの


















何か足りない。
神崎は思った。何か足りない。
胸の奥にぽっかりと抜け落ちた穴、傷口をなぶるようにその穴を通り抜ける冷風。神崎は思う。何が 足りない?
自問自答し、分かり切った答えに自嘲した。彼が足りない。
彼が隣にいた二年と少しの間あれ程光と色彩に満ちていた世界は、いまや全くの無色透明、ひどく味 気ない物に成り果てていた。
何を見ても、色が感じられない。目に入る全ての物は透明な錯覚である気さえする。
すでに世界から、現実味が消え失せて久しい。
記憶に残る、最後に見た色彩は、赤。
鮮やかな、目に痛い位に激しい赤色。
彼の頭から噴き出した、甘い香りのする赤色。
あの赤が神崎を濡らしたそれ以来、神崎の目に色は無い。
これはきっと罰なんだろうと神崎は考える。罰。彼を殺した、トモゴロシの。
彼を殺した、殺してはならない者を殺した、その罪はこの程度ではまだ軽い。生きながら八つ裂きに されるくらいで丁度いい―――――そんな風に考えるのは、馬鹿げた事だろうか。
神崎は部屋の天井を仰いだ。何も見えない。何も聞こえない。
透明な世界は冷えきり、神崎は己の身体を抱き寄せた。
誰も居ない部屋は二人の空間に慣れた神崎にはひどく寒々しく感じられた。








ふと気が付いた時、その場に残っていたのは神崎自身と、一丁の拳銃と、それから赤い何か、それだ けだった。
つい先程までこの場にいたはずの彼は、では何処に?
神崎は赤いそれに目を向けて、けれども思う。違う、これは彼ではない。
神崎の知っている彼はこんな真っ赤ではなかったし、大体もっと綺麗だった。赤いそれは濁った眼球 らしき物を持っていたが、ならばなおさら彼では無い。彼の目はもっと鋭く苛烈で、冴え渡った光を 宿していたはずだった。
神崎は辺りを見回し、彼を探す。何処に行ってしまったのだろう。
そういえば神崎の記憶はひどく切れ切れで覚束ない。私は全体、何をしていたんだったか。
とにもかくにも彼を探すのが先決だろうと考え、神崎は憶測する。私の記憶が曖昧であるなら、もし かすると私のうろんな意識の途切れの間に彼は私を置いて何処かに行ってしまったのかもしれない。 神崎の知っている彼の性格を考えれば、それは充分にありえる話だった。ああ、そうに違いない。
すると彼は私を放って何処にいるのだろうか。
神崎は辿る。彼なら何処に行きたいと思うだろう。
ふと思い至る。図書館ではないか。
神崎は彼が図書館で本を片手にくつろいでいる様子を安易に想像出来た。確信する。そうに違いない。 神崎は拳銃をポケットにねじ込み、図書館に行った。
ところがおかしな事に、彼がいない。神崎は首を傾げた。此処では無かったのだろうか。
しかしすぐに思い直す。いや、多分先回りしてしまったのだろう。
神崎は彼を待つ事にした。
閲覧室の奥から二番目のデスク、一番右の椅子。最初に出会った時に彼のいた場所が空いていたので、 其処に座る。
戯れにトルストイを読んでみた。
相変わらずトルストイは冗長で退屈だ。彼は一体何を思ってこんな退屈な物語を読んでいたのだろう。 彼の視点に立てば何か自分とは違う、変わった物が見えるかもしれないという馬鹿げた考えが打ち消され、神崎は少し残念な気がした。
結局閉館時間まで彼は来なかった。神崎は逡巡する。
何処に行ってしまったというのか。何処に行けば逢えるというのか。らしくもなく、神崎は不安に駆 られた。何としてでも、逢わなければならない。
不意にあの、『赤いあれ』を思い出し、疑問を持つ。
『あれ』は、何だったのだろう。赤い『あれ』、元は人間であったのだろうか。神崎はそう考え、す ぐにその推測を切り捨てた。……そんな訳は無い。人間が、ましてやあの気高い彼が、あんな醜くおぞ ましい形をしている訳が無い。『あれ』はきっと、ああいう生物だったのだ。人間である筈が無い。 そうだ、そうに違いない。
とはいえ、何かしっくりこない。神崎は答えの無い疑問を反芻する。どうしてあんな生き物が―――――。
まぁいい。神崎は果てない思考に見切りをつけた。まぁいい。自分には至極どうでもいい話だ。
自分には、彼さえいてくれればそれでいい。他の事に興味は無い。
もうずっと長い間、神崎の狭い世界には彼以外の住民はいないのだから。
そう、だから、だからこそ、きっと彼は私を見捨てない。どんなに眉をひそめても、私を切り捨てる 事は無い。
さぁ彼は、何処に行ってしまったんだろう。外を見ればもう暗い。神崎は思う。もう家に帰ってしま ったのかもしれない。
彼は私を放って図書館へと赴き、その後家へ帰宅してしまったのではないか。
神崎は自分のその考えがいたく気に入った。そうだ、そうに決まっている。
実に彼らしい、と思った。
彼はそういう人間だ。神崎は納得した。彼はそういう人間なのだ。私の事など目にも入らない、根本 的に自己の事しか考えない。彼は基本的にはそういう人間だ。
それでも、と神崎は微笑む。
それでも、彼は決定的に私を見離す事は無い。彼は根の優しい人間だから、根は綺麗な人間だから。 神崎は彼の家へ行ってみる事にした。彼は表情には笑みを浮かべ、けれども内心ひどく眉をしかめ、 しかし私を迎え入れてくれるだろう。
神崎は愉快な気分になり、声をあげて笑った。根は綺麗な人間だから。
逢いにいこう。神崎は上機嫌になった。逢いにいこう。
きっと彼は其処にいる。あの不機嫌を隠しきれない顔で、けれども私を迎え入れてくれる。
足取りは軽い。神崎は彼がいる事を疑わず、家へと向かった。







結果から述べるなら、彼はいなかった。
神崎はいよいよ考え込んだ。どうして。何処に。
神崎は待ってみる事にした。帰ってこない筈が無い。帰って来るに決まっている。
神崎は待った。
外はもう真っ暗で、ぽっかりと切り取られたような月が浮かんでいる。帰ってこない筈が無い。神崎 は思った。帰ってこない筈が無い。
神崎は待った。
玄関口に座り込み、ただ扉だけを見つめて、待った。
夜の玄関はひどく冷えたが、神崎はただ肩を抱き寄せただけで、待った。
時折思い出したように目を向けた時計板はぐるぐると回ってゆき、長針は一周し二周し、扉は開く様 子も無く、短針がアラビア数字の三を指した時点で神崎は今日待つのを諦めた。
彼の部屋から毛布を一枚拝借し、玄関先で眠り込んだ。
早朝目を覚まし、神崎は家の中で彼を捜し、だが見つけられず、また玄関先に座り込んだ。
そして待つ。
ただひたすら、彼を待ち望んで、扉を見つめる。
食べる事も休む事も忘れ、ただ待つ。
帰ってこない訳が無い。必ず帰ってくる筈。神崎は扉を見つめた。今にこの扉を開けて、彼はひょっ こり帰ってくる。そして自分を見て驚き、ついで嫌そうな顔を見せ、あの痛いような目で自分を睨ん でくれる。そうでなければならない。
神崎は、彼が自分をひどく嫌っている事を知っていた。
最初は気付かなかったが、ときたま見せる彼の嫌悪の眼差しと微妙な距離感を感じれば、気付かない 訳が無い。
あの凍えるような視線。
友好的を装って注意深く隠された嫌悪の念。
神崎は知っていた。きっと彼は私の事が嫌いなのだ。
けれど、神崎は同時に思っていた。別にいい。嫌われていても、別に。
神崎は見抜いていた。彼が他人を見る目はまるで路傍に朽ち果てる石ころかごみ屑に対するような物 である事を。
彼は他人との会話を持つ際、愛想よく笑みもするし些細な冗談を言いもする。また話題が変われば話 を合わせてやる事もするし会話に同意を求められればにこやかに頷きもする。
けれども、と神崎は思い遣る。
けれども彼は会話の相手を自分と同等と見なしてはいなかった。
彼は会話の相手の事を言葉の通じる塵屑程度にしか捉えていなかった。確かに彼は他人と会話をする し笑いあう。時には冗談を言って会話の相手を笑わせてやるし、気が向けば他人の他愛も無い自慢事 をおだててやる事もした。
けれど、彼はけして他人を人間と認めていなかった。
周囲の人間を景色の一部かオブジェ程度にしか捉えていなかった。
彼の言葉は虚飾に満ちていたし笑みは張りついたように演技の匂いがした。神崎は思い出す。
彼は他人を自分以下の存在としてしか見ていなかった。
神崎は思う。彼はいつも孤独だった。彼の周りには彼を好ましく思う連中が垣を作り、彼を一人にさ せることはなかったが、それでも彼は孤独だったのだと。
集団に囲まれて、一人演技をし続ける彼は哀れだった。周囲の人間は誰も彼の演技に気付いてはいな い。神崎は思った。何故誰も彼の仮面に気付かないのか。
彼の目は死んでいた。いかに生き生きと会話を楽しんでいるように見える時も、彼の目は浜辺に打ち 上げられた魚のように暗く淀み沈んでいた。
神崎は絶望した。
彼の演技が一つ成功する度に、彼は少しづつ死んでいくかのようだった。もう彼の目は死にきってい た。
神崎は絶望した。彼は日に日に死んでいく。止めてやりたい、けれどどうすればいい。彼は私を最も 嫌い、憎んでいる。私に何が出来る。
彼の死んだような目の内に、神崎を睨む時にだけ雷を打ったように苛烈な光を宿しているのを見つけ たのは、その頃だった。
死んでいない目の色、生きた光、強烈な主張を見せる彼の瞳。
神崎は驚嘆する。彼の瞳の色の何て鋭い。
何て紙一重な、脆さにも似た。彼の目は、未だ死んでいなかった。
そして神崎は気付いた。彼の目の生きているのは、自分を凝視している、あの自分に対して敵意を隠 し切れずに見せている時だけだと。
彼が隠しきれない程の憎しみに駆られたその時だけ、彼の目は光をうち神崎を引き付けるほどに煌め く。
神崎は思う。彼は私を嫌い疎み、塵あくたの如く憎んでいる。けれどそれは、私を認めてくれている からこそではないか。
下等の存在とみなされれば、軽くいなされる。彼がそうしないのは、私を同等として認めているから でないか。
そして、彼の瞳に私を睨む時だけ強烈な光が差すのは、私を同等の物として認めているから、初めて の同種として認められてくれたからではないのか。
神崎は思う。かつて私は彼と友人になりたいと思った。彼は私を忌んでいる、しかし。
これも、一種の友人としての形と、言えないだろうか。
だから、と神崎は決意したのだ。
嫌われていつも良い。憎まれていても構わない。彼に石ころかごみ屑のような扱いを受けるよりかは 何百倍もマシだろう。
疎まれよう。厭われよう。彼は私を下劣な物でも見るかのように見下すかも知れない。私は甘んじて その視線を受け入れよう。それは何より彼が私を認めていてくれているという証拠なのだから。彼に とって私が一目置かれるような存在になったという、何よりもの証拠なのだから。







何回か昼と夜が回転した。神崎は待ち続けた。彼は帰ってはこなかった。
神崎は疑ってはいなかった。彼は帰って来るに決まっている。他に彼の帰る場所が何処にあるという のか。
神崎はもう何日も何も口にしていなかった。しかし不思議と空腹感は無かった。
今は食事などよりも彼を待つ事のほうが余程重要だった。第一何か食べる物を買ってきている間に彼 が帰ってきてしまったらどうするのか。
神崎はふと喉が乾いた気がした。思えば此処に来てから一口も水分を摂取していない。
水道水でも貰おう。そう思い、神崎は立ち上がった。
すると、かたと何かが床に落ちる音がした。神崎は音のした方を見やる。そこには、あの拳銃が落ち ていた。あの時ポケットにねじ入れた拳銃が、たった拍子に落ちたのだろう、と神崎は思う。
拾い上げた拳銃を、神崎はまじまじと見つめ、戯れに安全装置を外す。がちゃりと、何とも安っぽい 玩具じみた音がした。
神崎は、黒い銃口を己のこめかみに向けて引き金を引いた。
それは別段何か考えがあってした訳ではない、ただの思いつきで、勿論弾は入っていないのだから拳 銃はリボルバーの回る気の抜けた音をあげて沈黙しただけだったが、しかし、それが神崎にもたらし た影響は実に大きかった。
神崎はもっていた拳銃を取り落とした。拳銃は床で転がり、乾いた音をたてる。
あの引き金の感触、こめかみに集中する緊張感、覚えのある、硬く冷たい。
思い出した。神崎は驚愕した。思い出した。



彼の悪戯な目付き、悪趣味なゲーム、30口径マグナム、三ターン六回、繰り返す質問、回転する銃弾 、撃鉄とリボルバー、歪んだ口角、ロシアンルーレット、嫌悪に憎悪、ゲームに参加した動機は?、 屑、友人、君だけ、最期に、私は、僕は、引き金が、



思い出した。
神崎はフローリングに膝をついた。思い出した。
赤い紅い肉塊、濁る眼球、何の面影もない、あの赤い『あれ』。





彼は、私が殺した。










それからどれくらいの時間が過ぎたのか、神崎の記憶には無い。
指一つ、動かす気も起こらない。神崎は四肢を放棄する。こんな身体に用は無い。この身体は彼の為 だけに存在するはずだった。
彼は真っ赤になった。柘榴は割れた。
失望感、失落感、空虚感、脱力感。神崎に残された感情は、それだけだった。
ばんやりと惰性のままに思考は回転する。彼と最期にしたゲームについて。
彼は言った。『君が死んだら僕の勝ち、僕が死んだら君の勝ちだ』。
だが、それは違うだろう。神崎は今更ながら、気付く。彼に張り巡らされた、幾重もの罠に。
彼が死んでも、神崎に利は無い。
寧ろ絶望的に害しかないのだ。今現在、そうあるように。
彼が勝てば、神崎が死ななければならない。
神崎が勝てば、彼が死ななければならない。
そんなルールの何処に、自分の勝ちが用意されていると言うのか。
私は二人で一緒に、生きていたかったというのに。
神崎は己の手を見つめた。あの日引き金を引いた指。
あのゲームは、どちらが死んでも、必ず彼が勝つゲーム。
彼はあの日、敗率零のゲームをして死んでいった。
笑いが込み上げてきて、神崎は口角を歪めた。
どちらが死んでも彼の勝つ、絶対的に彼の有利に帰納するルール。

「…狡いです、玖堂君」

貴方は、本当にひどい。
神崎は引きつったような笑いを零した。
私は、勝負に負けた。
ゲームに勝ち、勝負に負けた。
神崎はふと窓の外を見た。青いはずの空は黒く濁り、色を失っていた。
ふいに一陣の風が起こり、神崎の頬を撫でた様な気がした。
実際には風など吹いていない、そんな風な気がしただけだったが、神崎は指先で風の名残の残る頬に 触れ、もう一度窓の外に目を向ける。


其処に、彼がいた。


神崎は目を見開いた。そんな訳が。
彼が其処にいた。窓の外、何もない空間に佇むように、彼はいた。
五階の部屋の窓の外に、浮いているとしか思えないような場所に、そうとは思えない気安さで、彼は 存在していた。
彼は半眼で薄く笑む。まるであのゲームの事など無かったように、安らかに笑む。

「―――――何故、其処にいるのですか?」

神崎は問う。彼は答えない。ただ薄く笑むだけで。

「何故、貴方が其処にいるのですか?」

夢遊病の様にふらふらと、吸い寄せられるように、神崎は彼の方へ踏み出した。
彼は答えない。
彼は答えない。

「私を懲らしめに来たのですか?」

彼は答えない。
表情を崩さない。
何も聞こえてなどいないとばかりに、語らない。
それが神崎にはひどくもどかしく、また一歩彼に近付く。

「私を殺しに来たのですか?」

もはや彼は神崎の目の前にいた。だのに彼はまるで意に介さずただ笑む。

「ああ、それとも……」

神崎は窓を開けた。触れれば壊れてしまいそうな近さに、彼がいた。

「―――――私を、迎えに来たのですか?」

彼は、何をも答えない。
ただ優しく微笑むだけで。
何も、答えない。
神崎は手を伸ばした。触れれば壊れてしまいそうな距離。
神崎は階下を見下ろした。おおよそ十メートルの高さは、限りなく遠く感じた。落ちれば頭くらい は砕けてしまいそうな高さ。
窓枠から身を乗り出し身体を宙に晒し、彼の方へと伸ばした指先は、確かに届くと思われた指先は、


空しく空を切った。


彼の肉体に確かに届いた指先は、しかし彼に触れられない。
いると思った彼に、しかし触れられない。
届いたと確信した、そこにあるはずの彼に、けれども指は空を切った。
神崎は、伸ばした指先を見つめた。空回りした指は、神崎の目にひどく白く冷たく映った。
立っていられない程の目眩を感じた、気がした。
ぐらり、と。
神崎はもう一度だけ、彼を見つめた。
彼は神崎など存在しないように薄く笑んだままで、その様子は何故か優しく見える。
だがけしてその目が神崎を捉えることは無い。
宙に浮いた彼の身体は、風に舞う程に、軽くはかなく揺らいで見えた。
神崎は、小さく呟く。

「玖堂君、」

神崎は、小さく呟く。
震える声音を無理矢理抑えつけ、沸き上がる確信に似た恐れと別れの予感に身体の冷えるのを感じな がら、目を彼に合わせられずに伏せ、言った。

「貴方はもう、……死にました」

私が、殺しました。
言い切って、神崎は伏せていた顔をあげた。



彼は、消えていた。
手品のように魔法のように、忽然と唐突に消えてしまっていた。
はじめから存在していなかったかのように、何の気配もなく、微塵の面影もなく。
彼は、消えた。



神崎は何か泣きたくなったような気がした。彼はもう、やはりいない。
くしゃりと表情を歪め、瞳に透明な物を滲ませ、だが神崎は泣かなかった。
窓の外には、もう切り取られたような空があるだけだった。
出よう。神崎は思った。此処を出よう。外に行こう。
外はきっとまだ色を無くしたまま、ただ白く黒くあるだろう。世界はまだ僕の目にモノクロームだろ う。
でも、と神崎は思った。
きっといつか目に痛いくらいの艶やかな色彩の宿る日が来るはずだ。
神崎は振り返った。そこにはあの扉があった。彼を待ち続けた扉を今は私の出る扉となる。神崎は扉 を開けた。
一歩、外へと踏み出した。街並はやはり白黒のままだった。それでいい。神崎は口角をあげる。それ でいい、今はまだ。






色を失った世界で、ただ眩しい空を見上げた。



割れた柘榴のように真っ赤な、赤い太陽があった。