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江戸時代、ある農村に一人の男がいた。
男には妻子がいたが、両者ともすでに亡くし、やもめの一人暮らしである。男は 妻子を愛していたので、簡易に卒塔婆を立てただけの墓所に毎日参拝することを 習慣としていた。貧しかったので、立派な墓地は立てられなかったのだ。
来る日も来る日もそとばの前に惚けたように立ちすくむ男を村人たちは白痴なの だと思っていた、なので誰も男を理解しようとはしなかった、総じて彼は孤独だ った、どうしようもなく容赦無き独りの生を送っていた。

節分の日、男はやはり墓所へと向かい、その帰り道、村のあちこちで賑々しい歓 声が聞こえるのに気付いた。豆まきの声である。子供のはしゃぐ声と豆のまく音 が相まって幸福な音だと男は思った。
「鬼は外、福は内」
「鬼は外、福は内」

思い起こされるのは数年前の節分の日である。その頃は未だ妻子も生きていた。 子供の為に鬼になってやった。豆に打たれて大げさに倒れてみせた。子供は嬉し げに笑った。妻はその様子を黙視して笑っていた。すべては平穏で幸福だった。 男は知らず嗚咽を噛み殺した。

男は淋しかったのだ。妻子はもういない。共に豆をまく相手はいない。孤独だっ た。男は家に奔って帰ると、むんずと豆を掴み出し、叩きつけるようにばらまく と、涙混じりにこう叫んだ。

「福は外、…鬼は、内!」

もはやこの家に福の神などおらぬ。もとより妻子のおらぬ今いてほしくもない。 鬼も来るなら来るが善い。拒みはせぬ。来て家主をかっくらえよ。妻も子供も死 した今、何を生きている事があろう。死しても善いのだ。死したいのだ。もうつ かれた。つかれてしまった。
福などいらぬ。鬼よ来い。

「福は、外!鬼は、内!」
かねてよりの貧乏暮し、豆はすぐに尽きた。が、男は栓を切ったように溢れる泪 を堪えるすべをもたなかった。村人たちは男のことを狂うていると評す、ならば もう狂うが善いのかもしれない。否、狂うよりもさっさと死ぬほうが善い。さ すれば浄土で妻子に会える。
その時、男の家の扉が叩かれた。
「もし、もし、誰か御座らんか」

不思議に思い戸を開けると、そこに鬼がいた。



さて、ここで考えねばならぬのは鬼の正体である。此処で言う鬼とは一体何だっ たのか?
日本では鬼というと赤い皮膚に二本角を具え金棒を持ったアレだが、中国では実 は死者の事である。
鬼の訪問。ここでの鬼を死者と仮定すると、男は死者と面前したということにな る。
死者とは具体的にだれであったか、冥土へ先立った村人の誰かであったろう。し かも一人ではなかった筈だ。おそらく十人弱くらいだろうか。
とにかく、彼は死者の訪問を受けたのだ。



戸を開けると数名の鬼―――死者がいた。しかもどれも見知った顔であった。近 隣の家で亡くなり既に葬られた人々だ。男は腰の抜けるような思いだった。冥土 の迎えだろうか、という考えが一瞬彼の思考を掠めた。
死者は語って曰く、
自分達は死して後せっかく節分を利用して現世に帰ってきたのに、どの家々でも 豆を投げられおんだされる。辛いし遣り切れないしでとぼとぼと歩いていたとこ ろ、件の男のみが、自分たち鬼を招き入れてくれると言ってくれた。思わず嬉し くて尋ねてきてしまった。
とかなんとか。男は驚いたのなんの、しかし元よりわびしい一人住まい、誰に気 兼ねすることもない、結局その哀れな鬼達を家に入れてやることにした。男自身 、淋しかったのもある。鬼は驚喜乱舞していろりの周りをぐるりと囲む。
「さぁ宴会だ」
鬼は言った。



鬼のお膳立てによる宴会は申し分ない立派さで、男を感嘆させた。貧困の農民た る男は、生まれてこの方初めてと言う位酒飲し暴食した。ただ一つ心に引っ掛か る点といえば鬼達がまったく飲食をしなかったことだろうか。鬼は手を打ちなが ら冗談を言ったり踊ったりはしたが、けして酒色に溺れたりはしなかった。考え てみれば死者が飲食をしないというのは当然のことではあるのだが、いざ目の前 にしてみると遣る瀬ない現実を突き付けられているようで、男は少し息苦しさを 覚えた。
まこと楽しい酒の席、男は羽目を外し浴びるような酒を飲んだが、胸のうちに一 滴墨汁を落としたかのような不安があったことは否定できない。やはり鬼は浮き 世のものではないのだから。

こうして宴の夜は更けてゆく。



夜明けと共に酒の席は終わる。鬼は朝日を浴びることはできないからだ。彼らは 夜の住人なのだ。
宴の最中、男は少しだけ微睡んだ。眠りに堕ちた意識すら無いほどの短い間、た った数分、彼の意識は幽冥の境をさ迷った。
夢を見た、らしかった。男には夢を見ているという意識さえ無かったのだが。
夢の中で、彼は地獄の大気に溶け込んでいた。熱気でむせ返る中、地上ではさま ざまな責め苦に苛まれる人間の姿が見える。男は一瞬、ほんの一瞬だけ、そのう ちの一人二人の顔を見た。そして、息をつまらせた。

地獄の官吏に責め立てられる人間のその顔は、自分の妻子のそれであった。

夢から凄い速さで現実に引き戻される時、男はぼんやりと思った。
ああ、妻子は地獄に堕ちていたのだ、と。



朝日が差し込み一番鶏の鳴く前に帰らねばならぬと鬼はいう。男は別れを惜しみ ながらも戸口まで鬼を送ってやった。
そこで鬼は感謝してこう言った。
「この節分の日に我々を迎え入れてくだすったあんたの為に一肌脱いでみせやしょう 。一つ願いをお言いなさい、鬼がその願叶えてしんぜよう」
思っても見なかった鬼の申し出に男の心は揺らいだ。明け方のうたた寝の夢を思 い出せば、今も苦しむ妻と子の姿が目蓋に蘇る。
男は決心していった。
「願いを叶えるならこの胸の心配事はただ一つ。鬼さんお願いだ、あっしの妻と 倅を生き返らせてはくれまいか? どうぞ聞いてくだせえ。あっしは昨晩夢を見 たんだが、それでは妻子が無間地獄で苛まれている。生きてる間ろくな暮らしも させてやれなんだ、せめて死後くらい浄土で楽をさせてやりてぇ」
鬼たちは顔を見合わせた。死者の甦りは不可能だ、自分達とて節分の間しかおれ ぬ、まして地獄に堕ちた者では。
鬼の一人が代表して答えた。
「すまぬがそれは出来ぬ相談だ。他の願いで勘弁してはくれぬか」
「いいや、あっしの願いはこれ一つきりだ。後にも先にも替りはあるめぇ。どう か一生一度の願、情けを知るなら叶えてくれぬ道理はない」
「そうは言われようと、こればっかりは………」

そんな風な問答がつづくうちに東の空が明るくなりはじめた。この世ならざる者 の行き来する東天紅の時を逃せば、鬼も帰れない―――
東天紅の時間は短い。鬼はあわてた。もう駄目だ、余計なことをする余裕はない ………。
鬼は男に向かって半ば言い捨てるように言った。
「残念だがこれまでだ、もう帰らねばならぬ。気の毒だが願いは叶えてやれぬよ うだ」
言うが早いか、鬼達の姿はすうと透き通り、歓待感謝申す―――と言い残し、朝 靄のなかに消えてしまった。男は茫然として見守るより他なかった。鬼は消えた 。男だけが残された。



男は茫然と朝日の中を立ち尽くす。結局、鬼は何らの願いも叶えてくれずに黄泉 路を帰ってしまった。
鬼は、死者だ。妻子も、死者だ。ならばせめて妻子にきてほしかったと男は思う 。これは道理の通らぬ我儘だろうか。片や浮き世の酒盛り、片や地獄の刑罰、男 は、鬼と妻子の待遇の落差を悲しく思った。
長かった夜は終わりを告げ、今や東の空には曙光が靄の向こうに揺らいでいる。 これからは生者の時間だ。死者は、もういない。鬼も、微睡みで見た地獄中の妻 子も。そして、己は生者である。どうしようもない現実というのは確かにある。 男の家の内は、よもすがらの酒盛りの後塵をすっかり白日の許に晒していた。そ れらは夜闇のうちでこそ体裁を保てるもので、朝見てみれば転がる銚子もこぼれ た濁酒も非常に白々しい。馬鹿げてもいる。男は、大量の猪口やら何やらを脇に 退けて座り、不意に虚しさに捕われた。
―――己は何ということもない、独りだ。
独りである。先程までの宴は現実であったのだろうか。鬼は真に此処にいたのだ ろうか。酒で酔い潰れて不可思議な夢を見ただけなのか。
夢ならば、夢中の夢とも言うべきあの妻子の夢は何だったのか。
男は懸命にあの夢を思い出そうとした。地獄の湿度の高い不快な大気、閻魔の眷 属ともいうべき執行人、彼に責め立てられる妻と子の歪んだ面………
涙と汗と体液で汚れた、見慣れた顔………
顔が青ざめた。
違う、あれは幻ではない、あれは妻子だ、妻子は地獄に居る、鬼とても手出しの 出来ぬ地獄にいる。
ああ、此処は何処だろう。賽の河原か三途の川か、地獄を見たのに己はなぜ未だ 生きている。妻は子は無間地獄の果てに居ると言うに、己はなぜ未だ生きている 。鬼達は何処へ帰った。浄土か。彼らは浄土に行けるものを、なぜ妻子は行けぬ 。
―――鬼がその願叶えてしんぜよう。
何が叶えてしんぜようか。死者は生き返らぬなどとほざいた癖に。
男は、うっそりと笑った。
生き返らぬなら、こちらから赴く迄―――
鬼が助けてくれぬなら、己で路を築く迄―――
男は、手近の銚子を一本たたき割り、その破片を右手に構えた。真っすぐに、喉 元を狙う。
―――此処は何処か。賽の河原か三途の川か。
―――否々、ここは地獄の通り道。
―――鬼は外、福は内、

―――鬼は、外。




男の妻と子の墓は、窮貧の為に卒塔婆が一本ずつ立っているのみである。世話を する人間がいなくなれば自然、風化し、朽ちる。
男は妻と子の眠る脇に骨を埋めるつもりだった。春になれば桜が咲くし秋になれ ば紅葉が舞い散る。墓場にしては善い場所なのだ。
もうじき二本だった卒塔婆は三本に増えよう。そしていずれはその何れもが風化し朽ちて砂 塵に帰すのであろう。
男は眠る。節分は終わった。鬼達は本来へ帰り、男は未知へ旅立った。鬼はいつ も外へ向かう。内へはいられない。
墓場へと筵にくるまれた遺骸が運ばれてくるのは、もうじきのことである。