彼女からは、いつもいい匂いがした。
その匂いをどう形容すればいいのか、甘いというわけではないし酸っぱいというわけではない、でも 敢えて挙げるならやはり甘かったのかもしれない。
しつこくない位の甘さ、彼女の持つ優しくて暖かい雰囲気。
彼女から微かに香るその甘い匂いは、堪らなく優しくて、だから私は彼女がとても好きだった。
近づけば風に乗って僅か甘い香りがする。ふざけた風に抱きつけば、腕の中の彼女から匂う香りが私 を幸せにしてくれる。
私の目に映る世界に彼女さえいれば私はそれでよかったし、だから私は幸せだった。
手を延ばせばそこに彼女のいる幸せ。
もしかしたら、これは恋だったのかもしれない。私は女で、彼女も女で、でも私は彼女に恋をしてい たのかもしれない。
他の誰より、彼女がよかった。
彼女の事で、頭が一杯だった。
彼女さえいれば、他は要らなかった。
別に彼女に告白しようだとか、想いを伝ようだとか、そんな陳腐な事はどうでもよかった。
私は今のままで幸せだったし、ぎりぎり存在する彼女との繋がりを無くしたくはなかったから、私の 告白で二人の間の、触ればたちまち崩れてしまいそうなバランスを無くすような馬鹿な真似は嫌だっ たし、だから無論実行することはなかった。そしてこれからもそんな事は無いのだろう。









彼女は永遠に私の想いに気付く事は無い。
それでいい。私の世界には今日も彼女がいて、光に満ちているのだから。

























23 : 涙よ 今だけは流れないで

























「早紀、紹介するよ。この人が―――――あたしの、彼氏」
彼女はいとも容易くそう言った。嬉しげに。楽しげに。幸せそうに。
その言葉一つが私の胸にどれだけの痛みを与えるのか、何も知らずに。
彼女は悪戯っぽくクスリと笑って私に語り掛けた。

「今まで黙っててごめんね。びっくりさせたくてさ」

違う。問題はそこじゃない。
そんなことはどうだっていい。そうじゃない。
そんな嬉しそうに笑わないでほしい。胸が張り裂けそうだ。

「この間から付き合い初めてね、今日が初デートなんだぁ」

彼女は自分から『彼氏』の腕を抱き締めて、寄り掛かった。
『彼氏』も嫌がる様子はない、どころか彼女の態度に照れたように、私にとっては目に痛いくらい眩 しく笑って、彼女の身体を抱き寄せた。自然零れる笑みが私に突き刺さる。
二人の間に見える信頼感、入り込めない雰囲気。
胸の辺りが、ギシリと音を立てて軋んだ。
彼女が、遠くにいってしまったような気がする。
ついさっきまでそこにいた彼女が、今はまるで小さく切り取られたTV画面のように、ブラウン管の向こ う側とこちら側で区切られてしまった気がする。
疎外感。
彼女と私の間、昨日までは何の隔たりも無かったはずなのに、何故なのか、今はひどく遠くに感じる。 見えない、聞こえない、触れない。分厚い壁がある。
愚問を承知で、私は彼女に一つ問いを投げ掛けた。

「………馬鹿な事、聞くよ。ねぇ、ゆきこ。私の事、好き?」

私の唐突な台詞に、二人は驚いた様子で目を丸くした。
当然だろう。誰だってこんな妙な質問、戸惑う。
まず意味が分からない。私の目的が分からない。
返ってくる答えを期待するのは―――――間違いだ。
彼女は『彼氏』と目を見合わせて、少し俯いてしまった。
その事にまた私は胸の痛みを覚える。
今まで、彼女の目線の先にいたのは、私だったのに。
………もう、私の方を見てはくれない。
彼女を支える役目は、私では無くなってしまったようだった。
切り捨てられた、のかも知れない。
気まずい沈黙に耐えられなくなって、私から話を切り上げた。

「答えてくれなくていいよ。変な事言ってごめん」

先手をうって、謝った。
彼女から決定的な言葉が返ってくるのを恐れて。
心にぽっかりと穴があいたように、空虚。
どうしようも無く、寂しかった。
帰ろう。これ以上この場にいても何も無い。何より此処にいたくない。
私を見てくれない彼女は、一緒にいてももうただ辛いだけだ。
じゃあ、と独り言のように小さく呟いて、私は身を翻した。失恋した負け犬は、とっとと消え去るの がお似合いだろう。
恋の成就を望んでいた訳では、無いのに……。

「早紀!」

呼び止められた。彼女の声。
つい、立ち止まる。足が竦む。

「あたし、早紀が好きだよ!」

彼女の、声に。
心臓が、音をたてて波打った。
私の望んでいた、最良の返事―――――。
振り返って見ると、彼女が。
嬉しくなった。
幸せになった。
ああ、と確信する。
こんな些細な事で嬉しくなる。
やっぱり、私は、彼女に恋してる。

「早紀が、あたしの親友で、ほんとによかった」

彼女は真顔だった。真剣そのものだった。
―――――悔しいけれど、やっぱり彼女には敵わない。
自然、微笑が零れた。
彼女は、なんて真っ白なんだろう。とても、綺麗。
甘くて、優しい。
ああ、今ならいえるかもしれない。そう思って。
私は、最後の質問を口にした。

「ゆきこ。今、幸せ?」

今更、答えは知っているのだけれど。
彼女はくしゃりと笑った。

「うん!」

その顔が本当に嬉しそうで、それが私には、無二の親友の私にはしっかりと伝わったから、答えはも う充分すぎるほど充分だった。
そうして改めて『彼氏』を見る。
彼は、誠実そうな顔をしていた。彼女に相応しい、純粋な顔。
彼なら、きっとこれからも、彼女を幸せにしていける。
私にはわかる。
もう、私は此処には不要。
二人からほんの数cm目線を逸らして、私はもてる最高の笑みでもって、言った。

「お幸せに!」

今度こそ、二人にくるりと背を向けた。
















私の願いは、彼女の幸せ。
私の幸せは、彼女の幸せ。
私の目にうつる世界に彼女がいて、幸せに笑っていてくれるなら、それでいい。
私は、それで十分。
それ以上望むことはない。
そこに私の意志が入り込む余地は無い。
私個人の幸福は関係ない。彼女が幸せなら。
私はずっとそうやってきた。
彼女だけ。
彼女だけ。
―――――最後の台詞、私は綺麗に笑えていただろうか。
声が震えてはいなかっただろうか。
まっすぐ立てていただろうか。
彼女の目に私はいつも通りでいられただろうか。
………堪えていた涙は、隠しとおせただろうか。









我慢していた涙が一筋、頬をつたった。









私の願いは、彼女の幸せ。
私の幸せは、彼女の幸せ。
今、彼女は堪らなく幸せ。
だから私も、最高に幸せ。









だのに。
だのに。
何故だろう、私の好きだった、彼女の甘い香りが、もう。
私には、思い出せなかった。