手品の種はいつも聞けば拍子抜けしてしまう様な単純な物なのだ。
箱がある。コインを入れる。蓋を閉じる。魔法の呪文を呟き箱を開けると、ある筈のコインが無い。
観客は口をぽかんとだらしなく開けそれを見つめ、それから猛然と粗探しを始める。箱を引っ繰り返 し隅から隅まで舐めるように注視し、コインを鼻先でかぎ回り、だが探せど探せど種らしき物は見当 たらずそのうちに疲れ果てて椅子に倒れこむ。手品師は横でにやにやと得意げに笑う。
種は簡単だ。手品師は始めから箱にコインなど入れていなかった。入れた振りをして掌に握り込んで いただけである。入れていない物が出てくる訳が無い、それは我々が勝手に勘違いし、錯覚を起こし ているだけである。箱にあるコインという固定観念が我々の目を塞ぐ。こんな子供騙しに、けれどそ れ故我々は容易く引っ掛かる。
我々は考える動物だ。思考で生きる動物だ。しかし頭でっかちであるが為に、我々は簡単に騙される 。赤子でも見抜ける単純なトリックが、だのに我々には解けない。「コインは箱の中」という鎖が我 々を 縛る。我々はけして万能な知性を有してはいない。
それを理解したなら、まずは刻み込め。人間は思い上がってはいけない。自分達の脳味噌は石より固 いという事をしっかり刻み込め。
そして思い知れ。我々は騙されてもその事にすら気付けない愚者なのだ。己の力を過信してはいるが その実ただの身の程をわきまえぬ蛙なのだ。なればこそ、我々は常に皆に騙され笑われているに違い ないのだ。
信じてはいけない。
今現在、こうして普通に生活している時にも、我々は多くを欺かれていないとは言えないのだ。何を もってしても、 誰を信じる事も出来ない。
疑え。我々はきっと錯覚しているのだ。己の脳に認識された歪んだ世界を正しいそれと思い込んでい るのだ。見た事を聞いた事を感じた事を、残さず余さず疑え。
そうすれば私はおそらく世界で只一人、真実を知る人間となれる。








14 : 何がわかるというの?




















例えば私は今此処に存在すると思い込んでいるが、実際は私は此処に存在する夢を見ているだけなの かもしれない。
「斎木さん、いい加減返事をしてくれないか。君はどうしてだんまりなんだ」
目の前で嘆息する医師を見上げた。彼について、私は詳しく知らない。 ただ精神科医らしいという事だけ。
彼は若干苛立った様子で私の周りをうろついている。私に、彼の問いに答える気は無い。
「教えてくれないか。君は何がしたいんだい。そうやってずっと喋らずに、言いたい事があるならそ の口を使って主張すれば良いだろう?」



私は夢を見ているのだ。此処に存在するという夢を。
皆はさも此れが現実であるかのように振る舞っているが、それは私を騙そうという演技なのだ。



私は答えない。
医師は眉をしかめ、当て付けのようにため息をついた。
そのこれ見よがしな態度が胡散臭く、また私の不信感を煽る。
医師の言葉を信じるつもりは無かった。
きっと医師を始め皆が私を騙そうとしているのだ。本当は世界は三年前のあの日のまま止まっていて 、けれど私があの日をもう過ぎ去った過去の事と勘違いしているから、それを面白がって皆がよって たかって私を騙しているのだ。
今病院のように見えるこの部屋も、私の目にそう見えるだけで、本当はあの部屋であるのだ。今医師 のように見えるこの男も、私の目にそう見えるだけで、本当はあの時の友人であるのだ。



私は錯覚しているのだ。コインは箱の中などではない、手品師の手の中に。



医師は不機嫌を隠そうともせずに、無表情を貫く私に眉をしかめてみせた。
内心、なんて馬鹿な子供なんだと思っていることだろう。態度にありありと表れている。
そういえばあの友人も良く苛立たしげにこんな表情で私を見ていた。「ねぇ本当に信じているの?」
私は何も答えずに、黙って瞳を閉じた。友人は「馬鹿な子!」と吐き棄てた。



にやにやと笑う手品師は私を騙そうとあの手この手を使ってくる。
何が起きても信じてはいけない。私は私だけを信じていれば良い。



目で見えることだけを信じていては真実は見えないのだ。
人間の目はひどく曖昧で、目を貫く映像は脳で誤変換されて認識される。歪んだ映像を私は真実と誤 認してしまう。
視覚だけに頼っていては本当の事は不明なままなのだ。
だから私は自分の意識を信じる。これは幻想だ錯覚だと訴えてくる私自身の意識を信じる。
見える世界は信用に値しない。宥めようとする人々は悪意に満ちている。
私は私だけを信頼する。私の意識は「世界はあの日で停止している」と叫んでいる。ならば世界はき っと停止しているのだ。



私だけが正解、私だけが事実。
私をすかす人々の方が過ちに違い無い。



騙されない。私は騙されない。
目前の彼の悪意に私は気付いている。皆のくだらない演技に私は気付いている。
けれど気付いているだけでは皆の悪事を暴く事は出来ないから、だから私はせめてもの抵抗に彼ら彼 女らの演技を無反応でもって見くびるのだ。いつかは皆も騙されない私に愛想を尽かすだろう。
私はより一層強く決意を決めて空中を睨む。騙されない。私は錯覚に溺れない。
たとえ世界中が私を嘲笑おうと、何度日々は進んでいるのだと諭されようと、 私はあの日の世界に留まっていると信じて止まない。私が間違っているのではない、世界が過ちなの だ。皆は私が移ろいそうになるのを見て、内心腹を抱えてわらっているのだ。



誰を信じる事も出来ない。愛した人はあの日死んだ。
私は自分だけを信じる。



私は誤らない。誰が何と言おうと、私は三年前の世界に生きているのだと。