13 : ここで生きたい






















彼女との思い出はいつも白色と共にある。
それは、多分――彼女のいつもいる部屋の色。
彼女は病室から一歩も外へと出たことは無かった。
どころか、真っ白いシーツのひいてある清潔そうなベッドの上から立ち上がった事さえなかった。
彼女はいつも、何か無機質で恐ろしげな白い沢山の管で繋がれていて、それが僕には彼女を無理矢理 ベッドの上に縛り付けているように見えたものだから、僕はそんな彼女を正視することが苦手だった。
傍らの備え付けの椅子に座る僕に、彼女は細すぎる手を伸ばし、僕の頬を触って言うのだ。

――――― 一つ、お願いがあるのだけれど。

か細い声は、いつも同じ事を願い、僕に懇願する。

―――――其処に、スイッチがあるでしょう?
       そう、それよ。
       ………そのスイッチを、切ってくれないかしら?

それで私は死ねるから、と彼女はいつも僕に縋る。
彼女の細くて冷たい指があまりに優しく頬を撫ぜるものだから、僕はつい彼女のたった一つのお願い を聞いてしまいそうになって、スイッチに手を伸ばしかけ、ようやく正気に返るのだ。

―――――僕には出来ません。
       貴女は、酷い。
       僕に、貴女を殺せと言うのですか。

そこでようやく彼女は僕にふれていた腕を下ろし、別段何も変わった様子なく、こう呟く。

――意地悪なひと。











彼女は、その機械無しでは生きてゆけないのだ。
スイッチを切れば死んでしまうのだ。
なのに、僕にスイッチを切る事を望むのだ。
この僕に、スイッチを切れと、そう言うのだ。
ひどい話ではないか。
本当に、随分とひどい話ではないか。





















僕は毎日彼女のいる病院に通っていた。
春も夏も秋も冬も、雨の日も雪の日も、毎日毎日。
もしかすると僕は知らず知らずのうちに疲れていたのかもしれない。
ある日、僕は病院からの帰り道、うっかり居眠り運転をしてしまい、2tトラックと正面衝突してしま ったのだった。









































あの人がこの病室を訪れなくなり久しくなりました。
それまで毎日私を見舞いに来てくれていたあの人が急に姿を見せなくなったものだから、私は気が気 でなくて、風邪でもおひきになったのかしら、それとも他に意中の方でもおできあそばしたのかしら と、いらぬ妄想は膨らむばかりです。
あの人は、こんなみすぼらしい、骨と皮ばかりの私など見捨ててしまったのかもしれない、今頃は誰 か抱き心地の良い女性でも腕の中に囲っているのかもしれない、そんな風な事ばかりが頭をよぎる、 ある日の事でした。
ずっと主の居なかったお隣のベッドに、新しい患者さんが越してきたのは。










その患者さんは、どうやら随分と手ひどくお怪我をなさったようで、全身包帯だらけのミイラ男さん でした。
集中治療室から出て来たばかりのその男性は、しかし体調がよろしくなったから退室した訳ではなく 、最早手の施しようが無いから一般病棟に移ったのでしょう事は一目で理解出来ました。
それ位に、その男性の様子は絶望的だったものですから。
私とて一生この寝所から動けぬ身、おそらく同じ運命を辿るでしょうその男性を、私は哀れみの瞳で 見つめたのです。
と、私はある事に気付きました。男性の人工呼吸器と包帯の厚い層の下、僅かに覗く唇が、見つめな ければ分からない程に小さく微かに、けれど確かな意志でもって動いているのを。
まるで何か伝えようとでもしていますように、唇は喘ぎます。

―――――………ろ、て…

よく聞き取れません。

―――――ころ、し…て………

ようやく聞き取れた言葉の、しかし私はその内容よりも声音の方に心を奪われたのでした。
忘れた事も無い、少し低めのハスキーボイス。
紛れもない、それは私の待ちわびていたあの人の声だったのです。

―――――こ、ろ……て………くれ…

ベッドに横たわる男性からはもう、かつて私の感じえた優しく一種気高いようなあの人独特の雰囲気 は微塵も感じられませんでした。
殺して、殺してくれとうわ言のように繰り返す彼は、しかし仕方の無い事なのかも御座いません。
おそらく二度と日の目の見ることの叶いません、ベッドにつながれたまま一生を終えるでしょう彼の 絶望は、私には自分の事のようによく分かりましたから。
私と同じ、この白い部屋で、無常に流れていく月日を止めようとするのだけれど、そんな事は叶わな いので、さらに絶望する。そんな人生。
まるで私みたいに。

―――――ころ…し、て……れよ………

胸の締め付けられたような気がして、私は唇を噛み締めました。
……その懇願をしているのは、私だったはずですのに。
彼は、私とは違う道を歩むべきでしたのに。
私には彼の絶望がよく理解できました。まるで私の躯の一部であるように、よく理解できました。
これから気も遠くなるような久遠の時間の中、この白い天井だけを眺めて過ごす孤独。
徐々に外の世界のすべての人に忘れられてゆく焦燥感。
あの背筋を伝う冷たい感触は、嫌という程身体に染み付いています。
絶望する度、私は彼に縋りました。
殺して欲しいと頼みました。
死んでしまいたいと思った、あの時の言葉は嘘ではないので御座います。
だから、私はきっとこの人を殺して差し上げるべきなのでしょう。
手を伸ばして、彼の人工呼吸器を取り外し、彼を楽にしてしまうべきなのでしょう。
その後で、彼の後を追うのもまた一興なのやもしれません。
私はこの人の苦悩を知っている。それだけで私がこの人を殺す理由は十分なのです。





でも…でも。





私は力なく、伸ばしかけた腕を下ろしました。
でも、私には殺せない。殺したくない。
殺したくなかったのです。
この世界にこの人がいなくなってしまう…そう考えただけで、殺せなくなってしまったのです。
彼のいない世界に一人、生きてゆく勇気はない、ので。
私に彼を殺してあげる事など、出来なくて。
私に彼は、殺せない。
我が身可愛さに彼を殺してあげる事も出来ない私は、傲慢なのかも知れません。でも私に彼は殺せな い。どうしても、殺せない。
皮肉な事に、立場の逆転した今ようやく、彼が私を殺してくれなかった訳を知ってしまったのでした。
殺せない。殺したくない。
その感情の理由を今更、知ったのでした。
今更。



………死んでほしくない、なんて、随分と自分勝手なお話ですけれど。
私は、彼にこう言いました。

―――――貴方は、やっぱり酷い人ね。
       死にたい、なんて。






―――――私が、いるじゃない。






生きています意味の無いような人生でも、彼さえいるのなら。
もう少し、ここで。